筑波海軍航空隊記念館・常設展示室

 

ようやく常設展示を体験

前回の訪問では、

記念館・司令部庁舎と周辺での

滞在時間は僅か30分ほどと短く、

常設展示などは完全スルーしました。

それでも

「司令室にも行けたし満足!」

と妻は言っていましたが、

僕自身が不満足の極みでした(笑)

そして今回こそはと、

た〜っぷり時間を配分し、

常設展示も体験する事が

出来、

まずは、めでたしめでたしですが、

実の所、それでも尚時間は足りず、

「流したところ」も多く、

再々訪問もありかも?です(笑)

筑波海軍航空隊記念館、

見どころ満載で、奥が深く、

まだまだ興味は尽きません。

順路・展示室平面図

企画展示で水戸第二連隊と

ペリリュー島の戦いの歴史を見た後、

常設展示へ。

順路。

やはりこの時期の推しは映画ですね(笑)

現存する遺跡

企画展示室前からスタート。

左に進みます。

ここからはパネル展示と

案内を抜粋して書き出します。

「何が残っているの?」

「街の中に戦争遺跡が点在する

市町村の例は多くありますが、

当時の搭乗員が見ていた景色を

現在でもそのまま感じる事が出来る

遺跡群は全国でも稀で、

号令台、正門、近戦闘指揮所所、

地下応急治療所、23残る掩体壕

(えんたいごう:装備や物資、人員などを

敵の攻撃から守るための施設)、

滑走路、唯一見学できる状態で残る

旧海軍司令庁舎等々、

日本最大規模で遺跡が現存しています。

司令部庁舎の北側には、

隊員が作った裏庭、池が残っており、

供養塔が設置されています。

また、北東のエリアには、

水素タンク跡やボイラー室、アンテナ跡と、

開隊初期の門が残されており、

北西側には当時からの

境界塀が残っています。」

文章だけでは想像しかありませんが、

僕たちはこの後、

史跡を巡るガイドツアーに参加し、

ここに紹介された所の多くを

この目で確かめたので、

今読むと「あ〜あそこか!」

なんて復習にもなっていますが、

妻は果たして覚えているのか?(笑)

「筑波空の要塞化と未発見の史跡」

「1945(昭和20)年2月23日付けの

筑波海軍航空隊戦闘詳報によると、

前年1944(昭和19)年の

航空隊見取図(平面図)に

記載されていない施設も、

終戦時には残されていました。

 

地下応急治療所は、

戦後壊され埋められたと

考えられていましたが、

2015年に地面の下2.5mから

入口が再発見されました。

また、

庁舎と地下戦闘指揮所付近を結ぶ

幅1.2mの地下トンネル(地下排水路)は

有事のさいの脱出路を兼ねていましたが、

全長2.2Kmの内約半分が

当時のまま現存する事が、

笠間市の調査により明らかになりました。

他の航空隊基地の事例を参考にすると、

筑波空での司令部庁舎などからの

地下トンネルへの入り口は、

マンホールからはしごをつたって

降りたものと推測されますが、

地下トンネルへの入り口は

見つかっていません。

また、司令部庁舎裏につくられた

裏庭の地下にも地下壕が作られており、

元隊員たちは

本パネル上の画像の位置から見た景色を

地下壕跡と呼んでいました。

 

敷地内の裏庭の地下壕や地下トンネルは

繋がっていたという証言もあり、

事実、司令部庁舎北側の

通路コンクリートに空間があり、

あちこちに空気取りの通風孔が

残っています。

その他、

もう1本の地下トンネルや他の地下施設、

終戦時敷地内に埋められた

紫電・零戦などの情報や証言が

伝わっています。」

本土決戦となった場合、

米軍は九州上陸の次に準備していたのが、

茨城県の九十九里浜ですから、

日本側もそれを予想して、

筑波海軍国空隊の要塞化を

急いだのではないでしょうか?

その要塞が使われる事もなく、

今、僕たちがその遺構を散策出来る

有り難さに歓喜する時、

平和を手に入れることが、

どれだけ困難で奇跡的なことかを

改めて深く考えさせられます・・・

「筑波海軍航空隊実弾射撃テスト場跡」

「実弾射撃テスト場は、

航空隊の西方3.5Kmほど離れた

星山地区の原野に設置されました。

涸沼川沿いの低地です。

射撃テスト場の規模は、

南北325m、東西115mほどで、

東側は土製の堤防状の壁が築かれ、

西側は涸沼川に面しています。

射撃位置は、南側で、北に向かって

280mと180mの標的が

設置されていました。

標的の後部は

壕(土を掘って作った穴)でその奥は砂地、

さらに山林でした。

壕の西側は石垣でした。

北側の山地から湧水があり、

良い飲料水となっていました。

射撃位置に零戦を置き、

そこから射線整合の為の

テストを行いました。

また、射撃場の東部の山林には

防空壕が掘られていました。」

「在りし日の筑波海軍航空隊」

上から

現在、昭和19年、大正9年の

筑波海軍航空隊。

基地があった時代の航空写真。

当時の光景

次のコーナーへ。

ここからも引き続き様々な写真で

当時が紹介されています。

ここからは気になる写真を

ピックアップします。

「遺跡MAP」

次回は全部回りたいかも?(笑)

「昭和19年の航空隊平面図」

「掩体壕の詳細」

「当時と今の比較」

意外と遺構は残っていますね!

「筑波神社」

「道場」

階段脇のパネル。

「格納庫と零戦21型」

映画「永遠の0」で、

宮部久蔵(岡田准一)が、

空母に突入した機体です・・・

「紫電11型と簡易格納庫」

大戦末期に活躍した「紫電改」の

元となった機体ですね。

「飛行隊指揮所」

「無蓋掩体壕の零式輸送機

(ダグラスDC3)」

アメリカ軍の兵站重視とは真逆で、

日本軍の致命的な弱点は兵站無視です。

その兵站を空輸で担うのが輸送機ですが、

日本軍は輸送機の生産に

全く力を入れていませんでした。

兵站無視なので、

そんなもの不要だったのでしょうが(汗)

アメリカから輸入(ライセンス生産)

されたDC3や国内製の少数機で、

間に合わせるつもりだったのかな?

でも制空権がなければ、

輸送機も無駄だったか・・・

飛行場も食べ物も全て「現地調達」という

どこまでも悲しい考え方、

作戦を練った学業トップクラスの人たち、

彼らの脳みそは、

スポンジだったのでしょうか?(汗)

「地下戦闘指揮所」

この遺構は後から行った所です。

筑波海軍航空隊の生活

次のコーナーへ。

「筑波海軍航空隊の生活」

飛行帽などの装備品。

ここで一番の注目はこちらです。

「航法計算機盤」

「多座機の偵察員が飛行中に

航空機内で偏流を測定し、

位置を計算するために使用する計算盤。」

零戦パイロットの坂井三郎氏の著書の中で、

開戦劈頭の頃、

フリピン攻撃から台湾に戻る時、

大雨になり視界も効かない中、

航法専門の複座機を見失い、

自身の計算のみを頼りに、

ガス欠寸前で何とか台湾に着陸した

お話を思い出しました。

それほど「航法」とは

重要なものなのです。

写真色々。

ー「歴史」を体感するー

ー宣言文ー

「ここは、戦争遺跡の保存と

その活用について、

知るきっかけ・考える

きっかけをつくる場です。」

左には、

「記憶をとどめる場所。」として、

記念館で撮影された過去の

映像作品が紹介されています。

「永遠の0」など多数記され、

最近では「YUKIKAZE」のロケも

あったようです。

筑波海軍航空隊の歴史探検

時間が押してきたので、

このあたりからは

写真が極端に減ります(笑)

記念館の紹介。

航空隊の歴史と言えば、

やはり特攻の記憶でしょう・・・

「沖縄特攻」

「1945(昭和20)年2月6日、

日本軍は天号航空作戦

(天号作戦)を発動し、

沖縄に侵攻するアメリカ軍を撃滅し、

本土を防衛しようとしました。

3月26日、アメリカ軍が沖縄本島の

慶良間諸島に上陸を開始すると、

日本軍は九州の各地から

航空機特攻を開始します。

4月6日から日本海軍は

「菊水作戦」(楠木正成の旗印に由来)、

陸軍は「航空総攻撃」という名称で、

沖縄周辺のアメリカ軍機動部隊や

輸送船団に特攻攻撃を行い、

筑波海軍航空隊にも出撃命令が下りました。

この作戦は6月22日の作戦終了までに

海軍陸軍10回から11回実施され、

あわせて1.915機

(海軍983機、陸軍932機)の特攻機が投入、

4,389名(海軍2,545名、陸軍1,844名)もの

搭乗員が戦死したとされます。

戦果として、アメリカ軍の駆逐艦や輸送船、

揚陸艦など数10隻を撃沈。

巡洋艦や戦艦、空母へ損傷を与えました。

この頃になると日本軍は

戦闘機や攻撃機の供給が追いつかず。

速度の遅い練習機も投入しました。

最終的に、

7月2日に組織的な軍事行動が終了、

沖縄はアメリカ軍に占領されました。

(航空機数や特攻での戦死者数については、

諸説あります)」

「金井正夫少尉」

【経歴】

「群馬県出身。仙台高等工業専門学校

(現東北大学)を卒業して、

第13期飛行予備学生となりました。

筑波海軍航空隊で戦闘機課程を終了。

昭和20年4月6日、

神風特別攻撃隊第1筑波隊員として、

鹿屋基地を発進し、

沖縄周辺のアメリカ軍輸送船団に

突入しました。

享年23歳。」

【会う事なく、手紙は200通】

「昭和20(1945)年終戦間際、

一人の女学生の元に手紙が届きました。

彼女は兵隊さんを励ます為という理由で、

学校に勧められ、

一人の海兵と文通をしていました。

海兵の名前は金井正夫少尉。

筑波海軍航空隊の訓練生でした。

はじめは国の政策で始めた文通でしたが、

手紙のやりとりの回数も増え、

女学生と海兵の手紙のやりとりは

200通にも及びました。

その日女学生に届いた封筒は厚く、

中には手紙と2つのペンダントが

入っていました。

それは、金井少尉から女学生に届いた

最後の手紙となりました。

生前二人の出会いが叶う事は

ありませんでした。」

国策とは兵士の士気を高める事・・

男の士気は女性で上がるのです・・

その士気を高めてくださった女性から

筑波海軍航空隊記念館にペンダントが

送られてきたのは、平成25年の事。

「金井正夫少尉が贈ったペンダント」

「1944(昭和19)年から

1945(昭和20)年初頭の頃、

金井正夫少尉が当時文通をしていた

女学生へ贈った手作りのペンダントです。

墜落した航空機の

風防ガラスの破片でできています。

零戦とハートのペンダントがあり、

後者には名前のイニシャルのMとTが

重なり合って彫られています。」

金井少尉の手の温もりが、

今も伝わって来そうです・・

「富安俊助 中尉」

【経歴】

「1922(大正11)年、

長崎に生まれました。

子どもの頃目が大きかったことから

「目玉」というあだ名がついていました。

早稲田大学政治経済学部に進学し、

大学では柔道部に所属した他、

ハーモニカも得意でバンドを結成し

コンサートを行うほどでした。

1943(昭和18)年3月、

大学を卒業し、

満州鉄道会社で働いていましたが、

同年9月、

海軍第13期飛行予備学生となり、

土浦海軍航空隊に入隊しました。

その後、

筑波海軍航空隊で戦闘機課程を受け、

松山海軍航空隊、岡崎海軍航空隊を経て、

1945(昭和20)年3月

筑波海軍航空隊教官となりました。

同年5月14日、

神風特別攻撃隊第六筑波隊隊長として、

午前5時30分、

500Kg爆弾搭載の零戦で

鹿屋基地を発進し、

種子島東方でアメリカの

空母エンタープライズに突入、

大きな被害を与えました。

享年24でした。」

【たった一機で

空母エンタープライズを炎上大破】

「第六筑波隊を率いて出撃したものの、

アメリカ軍のレーダーで捉えられ、

哨戒機の要撃や対空砲火を受け、

特攻隊は次々と撃墜されていきました。

残った富安機は、午前6時56分、

エンタープライズ左舷後方部上方から

急降下して突入、

前部エレベーター手前の

甲板に命中しました。

500Kg爆弾がさく裂し、

エンタープライズは爆発炎上、

乗組員が泡沫剤で消火にあたりました。

空母自体は撃沈を逸れたものの大破し、

その後再び戦列に復帰することは

ありませんでした。

犠牲者として戦死者13名、

負傷者68名を出しました。

エンタープライズでは、戦死した同僚を

星条旗でくるみ水葬にしました。

その後、

対空砲火をかいくぐって突入戦死した

日本軍のパイロットの遺体も

卓抜した操縦技術や沈着冷静な判断力、

その勇敢な攻撃を称え、

アメリカ兵同様手厚く水葬されました。」

【還ってきた富安機の破片】

「エンタープライズに命中した

零戦搭乗員の遺体は、

階級章から中尉であることが判明し、

名前は名札から通訳が

「トミザイ」という名で伝えました。

戦後「トミザイ」とは誰かと話題になり、

日本では日時や位置関係から調査した結果、

「トミヤス」すなわち

富安俊助中尉のことだと判断されました。

また、エンタープライズの乗組員

ノーマン・ザフト氏が、

零戦の胴体部分の破片を所持しており、

日本に返還することを決意しました。

2003(平成15)年7月、

遺族に返還され、

現在は鹿屋航空基地資料館に

保管されています。」

航空隊教官だったとか、

エンタープライズに、

背面ダイブで突入したとか、

富安中尉は、まさに「永遠の0」の主人公、

宮部久蔵のモデルの一人ですね。

(もう一人は坂井三郎でしょう)

エンタープライズ突入の成功は、

富安中尉の冷静沈着さはもとより、

その直前、防空網に撃墜されて散った

25人の仲間(部下)たちの魂が、

富安中尉を守ったからこその

偉業かも知れません・・・

「エンタープライズへの特攻」

命中の瞬間と

案内に記されていたノーマン・ザフト氏、

富安機の破片の写真。

未来へ向けた継承の在り方

正直ここはほぼスルー状態です(汗)

地下通路などを復元し、

見学ルートにするとか、

そんなことが書かれていたような・・?

(続く)

 

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