2021/12/26
和歌山城(和歌山市)その3
豊臣の城を想像させる
徳川御三家の城である和歌山城ですが、
城内をうろつき、
多くの野面積みの古い石垣を見ると、
ここが豊臣の巨大城郭だったことを
何となく思い起こさせてくれます。
徳川の城で豊臣を感じる・・
なんとも贅沢な話です(笑)
本丸御殿跡
和歌山城のパンフレットには
親切にも撮影スポットが明記され、
初心者にとって、有り難い限りです。
天守内部を見た後は、
「撮影スポット」の一つ、本丸御殿跡へ。
今回は赤線の部分を散策。
東側の門周辺から天守を眺め、
その後回れ右して、本丸御殿跡へ。
石段を登れば、撮影スポットです。
案内。
一部抜粋・要約すると
「和歌山城のある虎伏山は
ラクダの背のように東西に峰があります。
天正13(1585)年、
羽柴(豊臣)秀吉の命で
弟の秀長がまず築城したのは、
この山頂部分でした。
関ヶ原の戦い後、浅野幸長時代には、
東側の高い峰に
現在の形に近い黒板張りの
天守閣を新たに築き、
低い峰を二の丸とします。
その後、徳川頼宣の時代、
二つの峰は本丸となり、
低い峰(ここ)に
本丸御殿を建てました。」
このようになります。
先に登った天守から
現在僕達が立っている
場所を撮影したもの。
(矢印を付けた所)
逆にここから天守を撮影。
お~なかなか良いですね!
ズームして撮影。
天守の全体像が良くわかります。
ここでツーショット完了。
裏坂
天守から本丸御殿跡を経て、
二の丸に向かう道を裏坂といい、
ここを使って平野部へ向かいます。
天守曲輪下の石垣も
豊臣秀長時代の野面積みなので、
冒頭に書いたように、
当時の規模も相当に
大きいものだったのでしょう。
天下人秀吉の弟の城ですから
当たり前といえば当たり前かな(笑)
「銀明水」
「天守台北方丘腹の
「金明水」にならび
籠城時の非常用水であった。
城内にはこの外四十余ケ所あります。」
このように書かれています。
井戸の隣のお地蔵様にご挨拶。
さらに下ると、
またまた石垣が!
やはり秀長時代の野面積みです。
そして、ここから少し行くと、
浅野時代の石垣が見えてきます。
ここは打込み接ぎ。
よく見ると・・・
あった~!(笑)
やはり新裏坂の案内通り、
浅野時代の石垣には
刻印があります。
二の丸
ここからは平地。
二の丸といい、中奥や大奥など
藩主様や家族の
プライベートスペースがあった場所。
二の丸の案内。
今は広場です(笑)
穴蔵状遺構
二の丸の端っこ、
御橋廊下の手前にあるのが、
穴蔵状遺構とよばれる
石室みたいな構造物です。
案内によると
「発掘調査により、
石垣に組み込まれた形で、
穴蔵状の遺構が発見されました。
(中略)
なにか特定の物を収納する
施設であったと考えられます。
江戸城でも大奥付近に
石室(いしむろ)と呼ばれる
施設があり、非常の際、
大奥用の調度などが
納められたところと考えられています。
なお、穴蔵状遺構は、
明暦元年(1655)の火災以降、
入口が閉ざされ
埋め立てが行われています。
御橋廊下の架かっていた時期には
利用されていなかったと思われます。」
このように書かれています。
手前の石垣には、
脇坂家の家紋、
輪違いが刻まれています。
この石は削って装飾されていますので、
明らかに徳川期のものでしょうが、
和歌山城で浅野時代ではない
刻印を発見した僕は、
ちょっと偉いかも知れません(笑)
御橋廊下
西の丸と二の丸を繋ぐのが
御橋廊下と呼ばれる、
藩主とお付きの人しか
渡れなかった橋。
御廊下橋は平成時代の復元。
現在は藩主でない僕も妻も
大手を振って渡れます(笑)
御橋廊下の西の丸側にある高灯籠。
案内によると、
文政八年(1823)に
海岸近くに建てられたもので、
紆余曲折あって、
ここに移築されたとのことです。
紅葉渓庭園から眺める御橋廊下。
西の丸
次に西の丸へ。
和歌山城・序章で書いた
年配のお父様が奏でる
草笛の赤とんぼに癒やされた場所。
草笛って、何とも郷愁を誘います・・・
ズームして連立式天守を撮影。
ここからだと、
多門櫓もしっかり見えて、
なかなか良いシチュエーションです。
北側の堀外から
パンフレットに案内された
撮影スポットの一つ、
北側の堀外から天守を眺めると、
これがまた素晴らしいのです!
御橋廊下の先に天守、
そして、水面にはこの二つが
鏡のように映っていますね!
縦位置でズームしてみると、
これまたいい感じです!
丁度、堀クルージングの船がやってきたので
動画でも撮影してみました。
いや~絵になるなぁ~。
この後も和歌山城の散策、
まだまだ終わらない~(笑)
(その4に続く)