2021/12/08

和歌山城(和歌山市)その4

 

和歌山城で坂本龍馬を想う

和歌山城の巨大さと

豪華さを体験すると

徳川幕府、

紀州徳川家の威光の凄さを

身にしみて感じます。

それと共に思い出すのが、

幕末の「いろは丸事件」です。

この詳しい顛末を僕達は、

鞆の浦の「いろは丸展示館」で

体験しました。

その事件とは、

日本初の海難審判事故である、

紀州藩の大型船、明光丸と

坂本龍馬の海援隊による

運行中の小型船、いろは丸が

瀬戸内海で衝突し

いろは丸が沈没した

事故(事件)です。

この事故、長崎での海難審判では、

いろは丸の積荷は

沢山の銃や金塊だったと主張した

坂本龍馬の戦略に翻弄され、

結果、紀州藩は坂本龍馬に

賠償金7万両(136億円相当)

の莫大な金を支払うことになりました。

(21世紀の海底調査では、

銃も金塊も見つかっていません)

藩の後ろ盾もなく、

たった一人で巨大和歌山城を持つ

紀州藩を制した坂本龍馬の凄さに

思いを馳せてしまいます・・・。

ただ、この莫大なお金を受け取る前、

龍馬は京都で暗殺されました。

龍馬の凄さと並行して、

人の儚さを思い起こさせる、

和歌山城です。

北内堀

和歌山城の見所が多すぎ(笑)

駐車場のある不明門から出発し、

和歌山城序章から

その1その2その3

お思うままに書いて来ましたが、

やっとの事で(笑)

今回で和歌山城のお話は完結です。

今回の散策コースは、

北堀~大手門~一中門~

表坂~岡中門~岡口門~

南堀と巡り、不明門まで。

北堀。

「北内堀と石垣の櫓」の案内。

明治初期の古写真と

鳥瞰図も照らしながら見ると、

往時の姿が目に浮かびます。

大手門

本来ならば表側(大手)である

ここからスタートなんでしょうが、

今回は後半になりました。

一の橋と大手門。

大手門の先には、

一中門への直線が見えています。

「一の橋の樟樹」

案内を要約すると

「幹の周囲七メートル、

樹高二十五メートルで、

巨大な樹冠形成し

城内最大の樹木である。

推定樹齢は四百五十年、

和歌山空襲で損害を受けたが、

樹勢は回復し、今日に至っている。」

このようになります。

クスノキの生命力は、

和歌山城のも含め各地で見てきた

空襲から~の、

瀕死の状態から~の

樹勢回復という

粘り強さです。

粘り強さと言えば、極めつけは、

原爆でほぼ枯死した姿になりながらも

樹勢復活した長崎市の

山王神社の大楠でしょう。

あ~和歌山から

長崎に頭が行ってしまった(汗)

一中門

ここの見所は、徳川時代に積まれた

「切込み接ぎ」の石垣です。

一中門桝形虎口。

徳川の御威光、

ここに極まれり(笑)

綺麗な算木積みが施され、

幅2mくらいの巨石も

使用されています。

 

城内側から一中門を撮影。

切込み接ぎのお手本(笑)と妻。

しして、180度振り返ると

「ギャップ萌え」(笑)がこちらです。

伏虎像と野面積みの石垣。

昔、和歌山城を海上から見ると、

虎が伏した姿に見えたので、

「虎伏城」「伏虎城」とも言う。

このような案内とともに、

この像は二代目で昭和34年に

再建されたものと書かれています。

ここには石垣の案内もあり、

「豊臣秀長の城代、

桑山氏時代の

緑色片岩の野面積み、

浅野幸長時代、友ヶ島等に

石切場を開発し、

石は結晶片岩から和泉砂岩と移行し、

「打込みハギ」となり、

次の徳川期も初期は

砂岩を用いた打込みハギだったが、

その後、精密に加工した

「切込みハギ」の石垣となり

熊野の花崗斑岩も使用」

このように書かれています。

「接ぎ」をカタカタで「ハギ」と

書かれているのは親切ですね。

一般的に「接ぎ」という漢字、

使いませんから。

表坂

大手から城に登る石段。

石垣は野面積み(右)と

打込み接ぎ(左中)、

切込み接ぎ(左端)の

三種が同時に見られますが、

ここにおいて、

こんな光景はごく普通で、

驚くに値しないのが、

和歌山城の凄さでしょう。

岡中門

次に岡中門へ。

ここは先程の左端の部分ですね。

枡形内の櫓台石垣(多分)

櫓台下は切込み接ぎ布積み、

右側は打込み接ぎ乱積み。

ここ、高石垣なんです!

慎重、1.6mの妻と比較すると、

高さは10m位かな?

思わず美しい算木積みを

撮影してしまいます。

そして、ここでもまた

ギャップ萌えが・・・

向かい側は

緑色片岩の野面積み。

古い石垣をそのまま使った

徳川和歌山城の普請奉行さん、

倹約しながら最高のものを作る

名人だったのかも知れないと思いながら

ふっと思い出したのが、

豊臣秀長の和歌山城築城では

普請奉行を勤めた

築城名人の藤堂高虎の事。

その高虎さんは、

後年、徳川家康に仕え、

徳川和歌山城築城時にも

アドバイザーとして

参加していたというお話です。

やはり、この人のアドバイスも

かなりプラスだったのかも知れません。

岡口門

岡中門の次は、

岡口門へ。

ここで序章で書いた

サックス奏者と出会います(笑)

(右のベンチの人・顔は修正済み)

お城で、生のジャズ演奏、

ホントに癒やされました~。

岡口門。

案内を要約すると

「羽柴(豊臣)秀長時代、

ここは大手門であった。

浅野幸長の時代から現在の一の橋門が

大手となり、徳川時代に続きます。

現在の門は元和七年(1621)の

建立と考えられ、空襲にも焼けず残った、

旧藩時代の数少ない遺構で、

重要文化財に指定されている。」

このようになります。

門の中の石垣。

豪華な削り仕上げとなっていますね!

場外側から。

南堀

最後に南堀へ。

南堀。

江戸時代は水堀だったようですが、

現在は空掘で、

庭園として使われています。

ここからも天守が

いい感じで見えますね!

この後、不明門で散策完了し、

次なる目的、

徳川家八代将軍徳川吉宗が、

紀州藩主時代に建てた、

「岡山の時鐘堂」へと向かいます。

 

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