山宮神社(鹿児島県志布志市)
出会い
僕が一泊二日での鹿児島の旅を
計画した当初、鹿児島県の地図でいうと
向かって左側(西側)の鹿児島市内や
知覧などがある薩摩半島を一日目、
向かって右側(東側)の
志布志の大クスや
鹿屋基地などがある大隅半島を二日目、
こんな旅程で考えていました。
ところが、
当初は行く予定でなかった
鶴丸城や黎明館(歴史博物館)にも
何とか行きたいと考えた結果、
一日目と二日目を入れ替えれば
この二カ所も訪問可能だとわかり
一日目が大隅半島の旅となったのです。
結果的に、これが、いくつもの
思わぬ素晴らしい出会いをもたらしてくれ、
僕たちの鹿児島の旅を
濃い過ぎる(笑)ものにしてくれたのです。
山宮神社へ
志布志の大クス=山宮神社
なので、大クスを散策後の
神社参拝となりました。
境内の入口。
志布志の大クスと呼ばれる
巨樹が僕たちを迎えてくれます。
手水舎。
手水鉢。
清潔感溢れる龍神様の唾液…
いいえ、清水です(笑)
ご由緒。
国指定重要文化財の銅鏡も
この神社の境内で見つかっていて、
ここは古くからの祭祀場所だったようです。
楼門。
巨木の根っこを痛めないよう、
地面から浮かした廊下が
造られています。
正面向かって右側の
客人社(まろうどしゃ)
正面向かって左側の客人社。
門の先には拝殿が見えてきます。
その拝殿の手前には、
とても気になる
古い仁王像が座しています。
吽形の仁王像(随神?)
明らかに江戸時代の臭いがします(笑)
元禄五年(西暦1692年)の
文字が刻まれていますので、
江戸時代初期から、
330年近くの長い間、
ここで参拝者を睨みつけて…
いや、
見守って来たのですね。
阿形の仁王像(随神?)
同じく元禄五年生まれです。
拝殿。
ご由緒。
江戸時代までの名前は、
「山口六社大明神」。
御祭神は、天智天皇とその仲間達。
天智天皇の横には大友皇子の名が…
天智天皇の跡目争いだった
壬申(じんしん)の乱で、
天智天皇の弟である、
大海人皇子(おおあまのおうじ)
(後の天武天皇)に
負けて、自害して果てた方で、
なんと、明治時代になって、
短い期間即位していたと認定され、
「弘文天皇」として、
歴代の天皇に加えられています。
また、同じ天智天皇の娘である
持統天皇が、天武天皇の皇后で、
天皇とともに九州の福岡(筑紫の国)に
来られていたとき、草壁(くさかべの)皇子を
生んでいるのも僕たち福岡在住の者には
歴史が重なって楽しさもありますね。
ただ、二人が福岡に来ていたころは、
白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に
日本が大敗した時と重なり、
心身ともに大変な時期だったかも
知れませんね。
そして、参拝後は、本殿へ。
左が本殿、右が拝殿。
本殿。
背の高いソテツが
日陰を作ってくれています。
その後は、境内社の散策です。
本殿向かって右側の随神殿。
格子から撮影した吽形の随神様。
本殿向かって左側の随神殿。
格子から撮影した阿形の随神様。
随神殿に参拝していると
宮司さんが僕たちに近づいて来て、
こんなものをいただいてしまいました!
スイカ〜〜!!
めっちゃ冷たくて
甘〜いスイカですよ!
宮司さんが自宅で切って、
紙コップに入れ、長い楊子も付けて
持って来てくれたのです。
猛暑の中、最高のサプライズに
僕たちは感激しっぱなしでした。
間違い無く、
これは大クス前での
「木槌で二回打つと良い事が起きる」
というイベントのご利益に
違いありません(笑)
そして、その親切な宮司さんに
授与していただいた御朱印がこちらです。
「志布志乃大楠」の文字が
輝いています。
境内には杉もあります。
まだ樹齢は300年ほどなので、
これから500年、1000年と
この神社を見守ってくれそうです。
この杉の背後は、霊域になっていて、
神社の境内でも、より静寂な場所があります。
ここには明治26年まで、
大クスが生息していたそうで、
ここはその跡地でした。
枯れた大クスの根株から
石積みの石室と思われる
遺構が確認されています。
昔は、境内入口の左右に
大クスがそびえていた事を想像すると
当時の人々がこの神社に特別な
崇敬をいだくのは
ごく当然だったことでしょう。
大クスと神社とスイカ(笑)で大満足の顔。
山宮神社への参拝は、
志布志の大クスという
一本の巨木がきっかけでしたが、
実際には、お目当ての大クスよりも
長い間、大クスを見守られている
宮司さんの親切なお話や、
おもてなしの心など
そんな人間性というか
神様のお使いとしての人柄に
一番感動したのでした。
今日の発見
参拝者名簿収納箱。
野ざらしに名簿を置いておくのではなく、
大切に保管していることが、
何かしらの有り難さにも通じ、
思わず僕たちも記帳してしまいました。