弥栄神社(大分市)

 

文化財を守るもの

自分の住んでいる場所にある

文化財や由緒あるものは、

以外に知らないものです。

それでいて、遠くにあるものに

憧れたりします(笑)

僕たちが今まで訪問した神社でも

「何でこんなに古くて素晴らしいものが、

放置(笑)されているんだろう?」

そんな思いになった事は多々あります。

とは言っても、

国指定重要文化財にならなければ、

維持管理など多くの面で、

「自腹」のお金が必要となるのが、

文化財保護における

最大の問題点(悲)

しかし、お金の前に必要なことはあります。

それは地域の人の「思い」が形になる事。

誇りを持って手入れし、

訪問者に伝えていけば、

いつしか、

それが文化財保護にも繋がるはずです。

そんな事を思いながら、

素晴らしい随神門を見たくて訪問したのが、

大分市上野に鎮座する弥栄神社でした。

随神門へ

神社の名前は

弥栄と書いて「やさか」と読みます。

この「やさか」神社、

神仏分離までの名前は、「祇園宮」です。

全国にある多くの祇園宮、祇園社も、

御祭神の牛頭天王や「祇園」などの

仏教用語を外して、

弥栄、八坂などの名前に改名しています。

一の鳥居。

ここには「祇園宮」の

神額が掲げられています。

二の鳥居は銅製。

鳥居の両脇に建つ、

文化十三年(1816年)寄進の

燈籠台座の盃状穴。

参道右側の神馬舎(しんめしゃ)。

紅白の御神馬。

出会っただけで縁起が良さそう(笑)

石段を上りお目当ての随神門へ。

二層の随神門は高欄を配した豪華な造りで、

寛永2年(1625年)の造営です。

向拝の彫刻は、

ライオンっぽい狛犬(笑)

向拝のご神紋と瓦。

ご神紋は、明暦二年(1656年)から

府内藩主となった、

大給(おぎゅう)松平家の家紋と同じ、

「丸に釘抜き」。

どの地域に行っても神社の神紋は、

江戸時代の藩主の紋と

同じ場合が多いですね。

珍しくも随神様の真下に配置された

古い木造狛犬。

吽形。

楼門をくぐって、拝殿を背に撮影。

これだけ素晴らしいものが、

文化財指定もなく(多分)

従って放水銃などの

近代消火設備が無いのが気になります。

御由緒。

元の祇園社ですから御祭神には

スサノオノミコト様もいらっしゃいます。

由緒を抜粋すると、

「鎌倉時代の建久年間

(1190年~1199年)に

大友氏初代大友能直が

京都の祇園社(八坂神社)を

勧請、再興した。

大友時代は祇園祭り(祇園会)を

大友氏が奨励して大いに賑わったが、

天正十四年(1586年)島津軍の

府内侵攻により社殿は消失した。

荒廃した社殿を江戸時代の始め

元和四年(1618年)

時の府内藩主竹中重義が、

津院村(現在地)に移して

里郷の氏神、総鎮守とした」

ここに来る前に参拝した若宮八幡社と同じ、

大友氏初代大友能直さんが関わっています。

また、のちに長崎奉行まで上り詰めながらも

外国との密貿易を訴えられ、

切腹し改易になり廃絶した、

竹中重義さんも神社の為に、

頑張ってくれたのですね。

先程の随神門は、

重義さんの貴重な遺産とも言えそうです。

また、

Wikipediaによると、

重義さんのお母さんは、

秀吉の軍師で若くして亡くなった、

竹中半兵衛(重治)の妹でした。

色んな繋がりを知れるのも、

弥栄神社を訪問したからこそでしょう。

拝殿。

参拝。

拝殿右側から本殿へ。

本殿。

本殿正面。

ここでツーショット完了。

境内社など

誰もいない境内ですが、

綺麗に手入れされていて、

そこには神社を崇敬する

「人々」の存在を感じます。

神楽殿でしょうか?

貴船社。

御阪社。

厳島社。

猿田彦大神。

御社殿横の山にも境内社があります。

山へ。

八雷社。

稲荷社。

山の中の祠。

猿田彦大神。

ここまでで、

弥栄神社の参拝は完了です。

今日の何だろう?

随神門横に置かれていた車。

木の状態からして、

江戸時代、祇園祭で使われていた

山車(だし)の車でしょうか?

そうだとすれば、案内をつけて、

参拝者に紹介してほしいものです。

地元の人が思っている以上に、

価値があるものかも知れませんから。

 

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