増上寺(東京都港区)徳川将軍家霊廟
運命という奴(笑)
徳川幕府黎明期から三代の将軍、
徳川家康、秀忠、家光には、
特に壮麗な御廟が建てられ、
三人のうち家康と家光は日光に、
秀忠のみが、江戸(東京)の
増上寺に葬られています。
そして、その秀忠のお墓は、
第二次大戦末期、
米軍の空襲で増上寺境内もろとも
灰燼に帰してしまいます・・・。
家康と家光が自らの墓所を
江戸ではなく、日光に定めたことで、
現代の人たちも日光東照宮や
輪王寺・大猷院に参ることが出来るのは、
やはり
運命という奴(笑)仕業でしょうか。
パンフレット
まずは、
将軍家霊廟の入口でいただいた
パンフレットを確認。
表面。
裏面。
焼失前の増上寺御霊屋図を拡大。
八代将軍吉宗の命により
倹約のため新たに巨大な廟を造らず、
宝塔は以前の廟の中に
「間借り」することに
定められていますが、
九代家茂、十二代家慶、
十四代家茂の宝塔の位置を見ると、
その通りになっているのが、
よく分かります。
徳川将軍家墓所へ
一旦、フライングした後(笑)
時間調整の為、
先に台徳院霊廟惣門を見学し、
午前11時の墓所開門に合わせ再び墓所へ。
ここからスタート。
参道脇の千躰子育地蔵菩薩。
墓所前に到着。
ここでも
東京タワーの存在感は圧倒的(笑)
「徳川将軍家墓所」
以下案内の抜粋です。
「戦前、旧徳川将軍家霊廟は
御霊屋(おたまや)とも呼ばれ、
増上寺大殿の南北(左右)に
建ち並んでいました。
墓所・本殿・拝殿を中心とした
多くの施設からなり、
当時の最高の技術が駆使された
厳粛かつ壮麗な霊廟は、
いずれも国宝に指定され
格調ある佇まいでした。
その後昭和二十年(1945)の
空襲直撃で大半が焼失し、
残った建物もその指定を解除されました。
正面の門は旧国宝で
「鋳抜門」(いぬきもん)といわれ、
文昭院殿霊廟(徳川六代将軍家宣公)の
宝塔前『中門』であったものを
移築しました。
左右の扉には共に青銅製で
五個ずつの葵紋を配し、
両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれ、
その荘厳さは日光東照宮と
並び評された往時の姿を今に伝える
数少ない遺構です。」
「鋳抜門」
昇り龍。
下り龍。
鋳抜門を横から見ると、
唐破風であるのが分かります。
墓所前の四菩薩像。
右から普賢菩薩、地蔵菩薩、
虚空蔵菩薩、文殊菩薩。
案内には、
正嘉二年(1258)の作と伝えられ
もとはこの場所の北西、
地蔵山に安置されていたと書かれています。
文殊菩薩さん、
ここでも一人獅子に乗っていますね(笑)
墓所内部
外観に浸った後は、お参りへ。
チケットを買ったら
めっちゃカッコいい
クリアファイルをいただきました!
開門前に撮影した墓所入口。
ここから中へ。
入ってすぐ右、鋳抜門の内側。
扉に葵の紋はありませんが、
昇り龍、下り龍は彫られています。
墓所全景。
案内。
この図から見ると、
往時は現在の墓所の
1000倍ほどの
敷地面積があったようです。
そして注目なのが、
増上寺両脇のプリンスホテルは、
なんと二つとも御霊屋の上に
建っているということです!
向かって左側、
「ザ・プリンスタワー東京」に泊まると
二代将軍秀忠さんを
感じられるかも知れません・・・。
焼失前の写真。
現在の墓所の配置図。
僕たちは右下から左回りに
一周して参拝。
解説はパンフレットの抜粋です。
十二代家慶公。
「天保の改革に着手するも成果なく、
幕府は没落の道を歩むこととなる。」
九代家茂公。
「正徳元年8代吉宗公の長子として出生。
生まれつきの多病で将軍になっても
政務は重臣にまかせた。」
七代家継公。
「六代家宣公の第三子。
兄二人の早世でわずか3歳にして
7代将軍を継ぐ。」
二代秀忠公夫妻。
「寛永9年(1632)薨去。
霊廟は当時の最高の技術者が動員され
順次建立されていった。
台徳院殿廟奥院に祀られた宝塔は、
装飾華麗で当時の技術の粋を
つくしたものだったが、
惜しくも木造のため戦災で焼失。」
恐らく、
息子の家光さんが指示して
超豪華絢爛にしたのだと
推測します(笑)
パンフレットには、
「秀忠公宝塔は焼失した為、
正室江与殿のものを使用」
このように記されています。
六代家宣公夫妻。
「家光公の三男綱重を父とし
寛文2年(1662)に出生。
宝永6年(1709)将軍職を継ぎ、
新井白石等を重用し政治の刷新をはかり、
生類憐れみの令を廃止するなどして
正徳の治をなしとげたが、
在職わずか3年にして病に倒れ、
正徳2年(1712)
51歳の生涯を閉じた。」
十四代家茂公。
「安政五年将軍の養子となり
14代将軍となった。
井伊直弼によって
安政の大獄がはじまったが、
事態収拾のために公武合体策をとり、
和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎えた。
尊王攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、
家茂は長州征伐を指揮し、
出生途中で大阪城で
病のため薨去。慶応2年(1866)、
享年21歳であった。」
静寛院和宮。
(家茂の正室)
「公武合体政策によって
徳川家に降嫁。
家茂公没後、
波乱万丈変転厳しい時代のなか、
江戸城無血開城、徳川家存続、
夫君追善に力尽くすも、
明治10年(1877)
31歳という短い生涯を閉じた。
本人の遺言に従い
家茂公と同列に並んで祀られた。」
合祀塔(将軍生母側室等)
「家光公第3子で家宣公の実父である
徳川綱重をはじめ、家光公側室で
五代綱吉公の母桂昌院、
11代家斉公正室廣大院、
家宣公側室月光院ら
南北の御霊屋に祀られていた
歴代将軍の婦人や子女の
多数が埋葬されている。
なお宝塔は月光院輝子の
墳墓に祀られた宝塔である。」
最後に全員の方々に一礼。
東京タワーも
見守ってくれていますね(笑)
(続く)