会津若松城(鶴ヶ城)(1)

 

お金をかけた石垣

安土桃山時代、

江戸時代の石垣が残る会津若松城。

その石垣の多くは、

一手間かかる「切り込み接ぎ」です。

場所によっては、

駿府城江戸城など、

徳川と関係する城で多く使われる

「はつり仕上げ」や、

「すだれ仕上げ」なども施された

豪華なものになっています。

これは、

蒲生家、保科家、松平家などと

徳川さんとの関係かと思いきや、

高そうな石垣(笑)の

多くを手掛けたのは、

加藤明成という

外様大名なんですね!

もしかして

幕府がうまく金を使わせて、

城をしっかり整備し、

できた頃に転封させて、

後釜に徳川家に近い大名を入れる・・

そんな思惑があった気もします。

結果からすれば、

明成さんの城郭整備直後に、

徳川家光の異母弟、

保科正之が入封していますから

当たらずとも

遠からず?かもですね(笑)

西出丸

会津若松駅に到着後、

まずはレンタカー屋さんへ。

駅前の地下道入り口。

お城の櫓のようで、

めっちゃ手が込んでいます!

無事、今回の相棒と合流。

そして、

会津若松城の西出丸にある

駐車場を目指します。

西出丸はこの案内図の左端、

まさに「西側」です。

ここに車を置き、徒歩で散策開始。

「西出丸」

案内を書き出すと

以下になります。

「ここ西出丸は寛永16年(1639)に

藩主加藤明成が本丸防御を

強化するために整備した廓である。

面積は約4300坪あり、

西南と西北には隅櫓がおかれ、

出丸内には塩硝蔵や蝋、

漆などの蔵が置かれていた。」

西出丸北側、西大手門の石垣。

美しい切り込み接ぎですね!

ここは、古い石垣と、

加藤さんの時代の石垣との境。

西出丸内から撮影。

向かって右側の鏡石、

かなり大きいものです。

妻と大きを比較。

一辺、1.5m位かな?

ここでは感動はしたものの、

この後の散策で、

もっと大きな鏡石を

見飽きるほど(笑)見てしまったので、

今では、

あまり感動していない?かも(汗)

雁木を登って門を俯瞰。

北出丸

次に大手門があった

北出丸を目指します。

西大手門前の堀端を散策。

北出丸の石垣。

ここも加藤さんの時代に

積まれたそうです。

北出丸の西門。

雁木に登って北出丸内部側を俯瞰。

回れ右して、

西大手門方面を撮影。

北出丸内から西門を撮影。

少し行くと、本丸に続く、

横手坂が見えてきます。

「北出丸」

案内を書き出すと、

以下になります。

「寛永16年(1639)加藤明成のとき、

北馬出を出丸に造りかえたもので、

本丸を守る重要なものであった。

東は二の丸と伏兵廓に、南は本丸に、

西は西出丸に濠をへだて相対し、

攻防の際には最も重要な位置にあったため

城の生命線であった。

北出丸に侵入した敵は

三方からせん滅することができるので、

「鏖丸」(みなごろしまる)

とも言われていた。」

加藤明成の父、加藤嘉明は、

賤が岳の七本槍の一人。

後年、松山藩主として活躍、

蒲生家の次の藩主として会津に入り、

4年後に死去。

明成が家督を継ぎ

お父さんの功績に負けないよう、

天守の復興はじめ、北出丸、西出丸など

会津若松城の大改修で頑張ったんでしょう。

(冒頭の幕府都合もありかもですが)

しかし領内の統治に失敗し、

結局会津を去っています。

負の一面があってこその

会津若松城復興なんですね・・・。

この後、

一旦大手門を通過し北出丸を出て、

外から散策を再開します。

北出丸北側の堀。

大手門。

これを見て妻が一言、

「あ!保科正之の家紋だ!」

流石家紋大好き人です(笑)

家紋名は「並九曜」(なみくよう)。

大手門近影。

枡形内部から撮影。

北出丸内部から見た大手門。

さらに場内側から撮影。

雁木を登って枡形を撮影。

南側の雁木にも登ってみます。

鉄壁の守りですね!

加藤明成さん、

頑張って作ったんだな〜!

北出丸の遠藤敬止翁頌徳碑。

案内を要約すると

以下になります

「遠藤敬止翁(1849〜1904)は

旧会津藩士。

会津戊辰戦争では、

鶴ヶ城(会津若松城)に籠城した。

明治6(1873)年、

大蔵省銀行事務講習所の講師となり、

明治11年(1878)年、

仙台に第七十七国立銀行が設立され、

その後、頭取として

東北経済界発展に大きく貢献した。

明治23(1890)年

旧会津藩主松平家が

政府より鶴ヶ城の払い下げを受けた際、

遠藤敬止翁は

「この城跡は戊辰の逆境に

幾千の魂を留めた

古戦場なので、

千古の記念にしなければならない」と

私財を出し松平家に献納した。」

「お城」が残る背景に

私財を投げ打つほどの

奇特な人の存在は欠かせません。

会津若松城において、

城域の多くがそのまま残っているのは、

この方があってのものでしょう。

遠藤敬止翁さん、

ホントにありがとう!

(続く)

 

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