会津若松城(鶴ヶ城)(3)
話し相手
お城を散策していると、
一眼レフで撮影している
僕たちよりも
かなり年配の男性から
声をかけられました。
話好きというか、
フレンドリーというか、
とにかく話が止まらないのです(笑)
兵庫在住だと言われていましたが、
「実は僕たちも先日、
赤穂を旅したばかりです」
「姫路城も何回か行きました」
な〜んて言うと、
夜まで盛り上がりそうなので、
止めました(笑)
しかし、
奥様が大病で先立たれてから
ずっと撮影の旅をしているとお聞きし、
この人には話し相手が必要なんだ・・
だから旅しているんだ・・・
だから僕たちにも
声をかけてくれたんだ・・・
そう感じ、
一瞬しんみりしてしまいました。
誰しも何かを抱えて生きている・・・
そして、
旅しているんでしょう・・・
荒城の月碑
本丸南東隅の石垣前に建つのが、
「荒城の月」碑です。
九州に住んでいると、
荒城の月=岡城(大分県竹田市)
そして、瀧廉太郎、
このイメージしかありませんので、
何故ここで「荒城の月」なんだろう?
そんな反応になるのも
仕方ないでしょう(笑)
「荒城の月碑」
案内を書き出すと
以下になります。
「名曲「荒城の月」が
鶴ヶ城と青葉城をモチーフに
作詞されたことは土井晩翠を招いた、
音楽祭であきらかとなった。
時は昭和21年のことである。
翌年、
有志により詩碑建設会が設立され、
同年6月5日土井晩翠夫妻を招いた
盛大な除幕式が行われた。
この詩碑には、晩翠氏直筆による
荒城の月1番〜4番までの
歌詞が記されている。」
なるほど!
作詞家目線ならば、
「荒城の月」は、
会津若松城と青葉城ですよね。
土井晩翠さんの直筆歌詞。
麟閣
次に麟閣(りんかく)へ。
麟閣とは、茶室のことですが、
天守に入る時間を考えると
こちらに入る余裕はないので、
外からのみの観覧です。
まずは俯瞰から。
麟閣は写真右上隅あたりです。
麟閣のアップ。
「茶室 麟閣」
「天正十九年(1591)
茶道の祖・千利休は、
豊臣秀吉の怒りに触れ、
死を命じられました。
その時の会津藩主・蒲生氏郷が、
利休の茶道が途絶えるのを惜しんで、
その子少庵を会津にかくまい、
徳川家康とともに
千家復興を秀吉に願い出ました。
その結果、
少庵は京都に帰って千家を再興し、
宗左、宗室、宗守の三人の孫によって、
表、裏、武者小路の三千家が残され
今日の茶道の基礎が築かれました。
この少庵が会津にかくまわれている間、
蒲生氏郷の為に造ったと伝えられています。
江戸時代の初期から中期にかけて
現在の様式に改められたと
考えられている茶室です。」
蒲生氏郷さん、
やはり只者ではありませんね。
そして、
「気遣いの人」家康さんも。
麟閣入り口。
城内の桜はほぼ散っていますが、
何故かここだけは、
枝垂れ桜が満開です。
花見(笑)
天守&桜も撮ってみた(笑)
本丸御殿跡
現在天守下は、
芝生広場になっていますが、
江戸時代までは、
御殿が建っていた所です。
ここに御殿があったと想像(笑)
「會津鶴ヶ城御本丸之圖」
「ここから見える芝生とその周辺には、
鶴ヶ城本丸御殿が建ち並んでいました。
本丸御殿は、表、中奥、
奥向などに分けられていました。
中奥は藩主が日常生活や政務を執る場で、
表は藩主の謁見など公式な儀式、
行事のほか藩役人の執務の場で、
奥には金之間や御茶室などもあります。
また、
長局のある奥向はいわゆる大奥にあたり、
藩主の家族や女性たちの生活の場でした。」
案内図の裏側には
明治初期の写真を展示。
御殿の東端にある御三階跡。
案内を要約すると
以下になります。
「ここは本丸内唯一の
高楼建築「御三階」がありました。
戊辰戦争でも消失することはなく、
戦い後、戦闘によって本堂を失った
阿弥陀寺へ移築されました。」
移築されたとはいえ、
戦争を生き残り、
現存しているのが、凄いですね!
「手水鉢の由来」
「この手水鉢は、旧鶴ヶ城内の
小書院前にあったもので、
公演管理の功績があった遠藤十次郎が
松平家から贈られたものです。」
これをみて、一瞬灰皿と思った僕、
松平さんごめんなさい!(汗)
(続く)