赤穂城(兵庫県赤穂市)(1)

 

魂込めて整備中

赤穂城は、

実に綺麗に整備されてる

素晴らしいお城です。

大手門付近をはじめ、

いくつかの場所が、

整備工事中でしたが、

多くの遺構が残る貴重なお城を

さらに魂を込めて、

磨いておられます。

赤穂の皆さんにとって、

この城は間違いなく宝物、

そしてもちろん、

日本人の宝物でもありますね!

赤穂城の縄張

早朝、岡山プラザホテルを出発、

途中、「カキオコ」で有名な日生ひなせを通り

約1時間半走り、赤穂城に到着です。

東駐車場。

案内図で縄張を確認。

凄いですよね!

内堀だけでなく

外堀も埋められず、

江戸時代のままの姿が、

こんなに残っているなんて。

さすが、「日本遺産」に

認定されるだけの事はあります。

広域図も確認。

清水門

広大な赤穂城なので、

取り敢えず駐車場近くの

清水門を見ることに。

城外から見た清水門。

案内によると門の規模は、

幅二間二歩、

奥行き七尺七寸、

建坪四坪ですから

コンパクトな門だったのでしょう。

向かって右側の堀。

左側の堀。

この堀の外側には、

まるで、

お城に溶け込むような風情の

赤穂市立歴史博物館が建っています。

デザインした人、

センスありますな〜!

「赤穂城 清水門跡」の案内。

元禄十四年(1701)

幕府に赤穂城の明け渡しを終えた

大石内蔵助が名残を惜しみつつ

退去した門だそうです。

清水門に向かって左右には

重臣たちの屋敷があり、

その一部が武家屋敷公園として

整備されています。

案内を要約すると以下になります。

「重臣たちは城の重要な

門の近くに配置され、

それぞれ門の警護を受け持っていた。

ここは清水のおさえとして、

坂田式右衛門の屋敷が

あったところです。」

武家門。

屋敷公園内の風景。

城内から見た清水門。

石垣。

僕たちも

大石内蔵助の気分に浸りながら

清水門から退去(笑)

三之丸東隅櫓

ここからお城の玄関である

大手門を目指します。

駐車場から見た東側の石垣。

左端が清水門で、

右端が三之丸東隅櫓です。

三之丸東隅櫓。

三之丸東隅櫓から清水門方面を望む。

大手門

さらに北に歩くと

こんな案内があります。

「旧赤穂上水道 場内への配水」

書き出すと、

「赤穂の地は、

井戸を掘っても海水が出るため、

城と城下町の整備には、

上水道の整備が必要不可欠でした。

赤穂城下を潤すため、

元和2(1616)敷設された

旧赤穂上水道。

城下町の家々を潤してきた終着点が、

ここ赤穂城です。

赤穂城の周囲は

外堀や海に囲まれているため、

旧上水道の排水路は

「サイフォン」の原理を用い、

外堀の下をくぐらせ、

水圧によって場内側へ

吹き上げさせていました。

場内へ配水後は、三之丸の侍屋敷や

二之丸庭園に給水したのち本丸内にある

藩主御殿や庭園の池泉を潤し、

最後は瀬戸内海に排水されました。」

このようになります。

江戸の上下水道は有名ですが、

400年も前、赤穂城下でも

上水道設備が整えられていたのは、

凄いことですね!

「赤穂城下町を歩く」

この案内板よりも

右のポストの家紋が

気になり思わず撮影(笑)

代々の藩主がいる中、

ポストにあしらわれたのは、

浅野家の違い鷹の羽、

大石内蔵助の右二つ巴。

やはり

赤穂は忠臣蔵の町なんですね!

大手門

大手門界隈に到着。

大手隅櫓と大手門橋(左)。

角度を変えて櫓アップ。

大手門と櫓。

場内へ。

大手門の形状は、

スタンダードな高麗門です。

枡形全景。

枡形の端っこには、

上水道の汲み上げ升枠が

残っています。

場内側から見た大手枡形。

番所跡休憩所。

お城を整備をする人たちの

道具類が整然と並んでいる姿、

これも

一つの思い出かな(笑)

「大手枡形」

案内を要約すると

以下になります。

「現在ある高麗門は、

隅櫓、土塀とともに

昭和30年に再建されたものである。

発掘調査によって、

枡形石垣、櫓門跡、番所跡、

上水道施設、排水枡、

大石内蔵助屋敷土塀石垣など

多くの遺構が見つかっている。」

上水道まであったとは、

改めて、

凄いな〜と思ってしまいます。

「赤穂城関係年表」

気になる部分を抜粋。

「天正14年(1586)

初めて赤穂藩が成立し

生駒親正が配置される」

高松城や、

高石垣が素晴らしい

丸亀城を造った生駒親正さんは、

四国の対岸、

ここ赤穂にいたんですね!

「天正15年(1587)頃

親正は讃岐国高松藩に移され、

宇喜多秀家が赤穂を領有する。」

へ〜岡山城主の秀家さん、

ここも領地になっていたんだ〜!

秀吉に愛された男、

やっぱり贔屓してもらったのかな?(笑)

その後は、池田輝政の

姫路藩領有となったり

またもや岡山藩の領有となったりと

行ったり来たり(笑)の位置付けです。

そして、やはりハイライトは、

「元禄14年(1701)

三代藩主浅野長矩が、

江戸城において刃傷事件を起こし切腹。」

「元禄15年(1702)

大石内蔵助良雄をはじめとする

赤穂浪士が吉良邸に討ち入る。」

ここですね!

この一件で、日本人は、

この仇討ちを「忠臣蔵」として、

永く伝えて行くことになったのですから

大石内蔵助という

稀有な家臣を持った長矩さんは、

ある意味、幸せだったのでしょう・・・。

ここから二之丸方面へ。

大手枡形の場内側からは

三之丸跡に鎮座する

大石神社の社殿も見えています。

近藤源八宅跡長屋門

赤穂城の遺構の一つ、

近藤さんのお宅へ(笑)

一部が現存しています。

案内を要約すると

「赤穂城の縄張をした軍師、

近藤三郎左衛門正純の子、

源八の邸宅の一部で、

18世紀に建て替えられたものと

推察されている。」

このようになります。

大石邸長屋門

次は超有名人、

大石内蔵助さんのお宅へ。

大石邸長屋門全景。

門部分アップ。

「浅野家筆頭家老

大石内蔵助の一家三代が

57年にわたり住んでいた

大石屋敷の正面門長屋である。

又、元禄十四年三月

主君の刃傷による

江戸の悲報を伝える

早打ちが叩いたのもこの門である。」

案内には

このように書かれています。

大石さん宅を過ぎると、

大石神社の横参道入り口がありますが、

神社は後から参拝するので、

ここはスルー(笑)

片岡源五右衛門宅阯

こちらは遺構はありませんが、

場所の案内です。

赤穂浪士の一人、

片岡源右衛門さんのお宅跡は、

大石神社の端っこです。

赤穂城、見どころ多くて、

なかなか前に進めません(笑)

(続く)

 

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