赤穂城(兵庫県赤穂市)(4)
訪問者に優しいお城
赤穂城はとにかく
散策しやすいお城です。
遺構がたくさん残っているのが、
ベースにあり、それに加え、
案内板の多さと、
手入れの行き届いた曲輪や石垣、
のんびりできる庭園、
多くの復元施設などなど。
訪問者に優しいお城、
それが赤穂城です。
外堀
本丸散策後、
再び二之丸へ。
ここからは時計回りで、
内堀を一周します。
二之丸から見た、
本丸南東隅の櫓台。
天守台から見た北東隅櫓と同じく、
ここでもアオサギちゃんが
見守っていますね。
右が外堀の土塁。
一部には腰巻き石垣が
設置されています。
ここは「登ってもOK」のようなので、
土塁の上から
外堀と二之丸東櫓台を撮影。
回れ右して外堀南側へ。
ここからだと赤穂城独特の
「折れ」がよく分かります。
左が外堀、右端の石垣下は内堀。
外堀土塁下から
内堀、本丸東側の石垣を撮影。
刎橋門
次に、
本丸の臨時出入口とでもいうべき
刎橋門へ。
南東隅から見た本丸石垣。
水面に石垣と青空が映り込んで、
なんかいい感じ!
奥の櫓台手前に
小さく見える石垣のへこみが、
目指す刎橋門です。
刎橋門に到着。
今は刎橋はないけれど、
当時の雰囲気は、
しっかり残っていますね!
なんだかこの雰囲気、
二条城の西門を想起させてくれます。
正面から。
必要な時は、
刎橋を下ろして
通行したのか、
それとも
非常時の脱出口だったのか?
南西隅櫓台から刎橋門(右)を望む。
櫓が建てられず
横矢枡形として存在した南西隅櫓台。
色が違う上部は復元でしょうが、
しっかりと
江戸時代の石垣が残っていますね!
花見広場
本丸西側の二之丸に広がるのが、
花見広場です。
案内図。
海に面した船着場があったのか・・・
見落としてしまった(汗)
桜の季節は
花見客で賑わうのでしょう!
西仕切り門
次に二の丸庭園との境にある
仕切り門へ。
土塀の前に何やら発見!
お〜シラサギちゃんですよ!
白壁に白鷺、
いい語呂合わせだ〜(笑)
西仕切り門と続きの土塀
「西仕切り門」
案内を要約すると
以下になります。
「西仕切り門は
二之丸を南北に二分する城壁で、
文献や資料によれば、
「透シ門」などと呼ばれていることから
門扉の一部に板を張らない
構造であったことが分かっている。
そのわけは隙間から敵の情勢をうかがい、
攻撃も仕掛けられるような工夫と言われ、
しばしば用いられていた。」
大坂の陣から50年ほど、
平和な時代にできた赤穂城ですが、
それでも戦いに備え、
手抜かりはないようです。
西仕切り門から二の丸庭園へ。
二の丸庭園
二之丸の4分の1位の面積を占めるのが
広大な二の丸庭園です。
こちらは
西仕切り門とは反対側の入り口、
大手道に面した案内板で、
庭園の全貌がよく分かります。
「よみがえる旧赤穂城庭園 二之丸庭園」
「二之丸庭園は、
赤穂城二之丸北西部に存在した
大規模な廻遊式庭園で、
東は大石頼母助屋敷から始まり、
西は西仕切りにまで及ぶ、
ひょうたん形の雄大なものでした。
山鹿素行の「年譜」の中に、
この庭園に関連する記述が見られ、
頼母助屋敷の一角で謫居生活を
送った素行がこの池泉で
遊興したことが記されています。
それによれば、この庭園には
「茶亭」「浮玉堂」「龍船」などが
しつらえてあったこと、
「海棠」「牡丹」などの植物で
彩られていたことなどがうかがえます。
発掘調査の結果を受け、二之丸庭園は
本丸庭園とともに
「旧赤穂城庭園」として
国の名勝に指定され、
平成14年度から整備を開始、
復元整備を実施しているところです。
世紀を経てよみがえる
大名庭園にご期待ください。」
このように書かれています。
配流先として赤穂にいた山鹿素行さん、
この人のお陰で、
二の丸庭園の様子が
残されていたんですね。
西南の一角。
ここから北へ。
太鼓橋。
西へ。
東屋でおどける妻(笑)
さすが江戸初期から
上水道を完備していた赤穂城、
水の管理も完璧ですね!
西から東側を撮影。
東側の奥に見えてきたのは、
復元された大石頼母助屋敷門です。
案内によると
「大石頼母助良重は、
大石内蔵助良雄の大叔父で、
家老職にあった。
山鹿素行が赤穂に配流された際、
素行はこの屋敷の一角で
八年余りを過ごしたという。
門は、発掘調査をもとに、
薬医門形式の屋敷門として整備された。」
このように書かれています。
家老という家柄だから
格式高い「薬医門」だったのかな?
ここが大石頼母助屋敷跡。
二の丸庭園の外から見た
大石頼母助屋敷門。
ここまでで赤穂城の散策は完了し、
次は三之丸跡に鎮座する
大石神社へと向かいます。