熱田神宮(名古屋市)中編

 

パワースポット=気持ち良さ

「パワースポット」という言葉、

毎日のように耳にします。

もちろん、ご利益があるとか、

強力な縁結びとかで、

パワースポットと呼ばれるのは、

それでいいのかとは思いますが、

僕が感じるパワースポットとは、

そこに居て(行って)体験し、

何も考えずにただ気持ち良いか、

清々しいか?なのです。

熱田神宮は、随所に

「居て気持ちいい」を

感じさせてくれる

素晴らしいパワースポットでした!

清雪門(せいせつもん)

参道から右(東側)に外れた

南新宮社をはじめとする

幾つかの境内社を参拝して、

再び参道に戻る途中に見つけたのが、

清雪門と呼ばれる古い門です。

こちら、熱田神宮に建てられた

四つの門のうちの一つで、

唯一空襲で焼けなかったという

江戸時代以前から現存する門で、

昭和の解体修理では、

貞享三年(1686)の

墨書きが発見されているそうです。

案内などによれば、

元は本宮の北門で、

天智七年(668)新羅の僧が

御神体である草薙御剣

(くさなぎのみつるぎ)を盗んだ時

通った不吉な門とも言われ、

その後、移設され、

不開門(あかずのもん)として

現在も扉は閉められたままだそうです。

その草薙御剣が熱田神宮に

戻って来た喜びを表すお祭りを

酔笑人神事(えようどしんじ)といい、

熱田神宮のサイトには

次のように書かれています。

「天智天皇の御代、故あって神剣は

一時皇居に留まられましたが、

天武天皇朱鳥元年(686)勅命により

当神宮に還座(かんざ)されました。

この時、皆がこぞって喜んだ様を

今に伝えるものです。

喜び笑う様から

「オホホ祭り」とも呼ばれます。

この神事では祝詞・神饌がなく

境内の灯りも全て消されます。

古くより見てはならないと語り伝える

神面を神職各自が装束の袖に隠し持ち、

中啓という扇で神面を軽く叩いた後、

全員が一斉に「オホホ」と笑う

神秘的な神事です。」

清雪門の前で行われるオホホ祭りの様子。

(神社参道の案内版の写真)

男たちが集まって「オホホ」と笑ってる・・・

う~んホントに気持ちわる・・・

いや、神秘的だ~(笑)

手水舎

参道に戻り御社殿へ。

とにかくここは広い!

手水舎。

ここでは本来の柄杓による

普通の手水が出来ますが、

コロナ対策により慎重な方には、

こちらがあります。

参道横に設置された、

竹から水が滴るお手水。

上知我麻神社と八剣宮のところも

ハイブリッド手水鉢でしたが、

人それぞれの価値観を

本当に大切にしてくださる

熱田神宮さんは、

実に細やかな配慮が行き届き、

その思いが心にビンビン響いて来るから

もうたまらんですね(笑)

大楠

竹の御手水の真ん前にそびえるのが、

御神木の大楠です。

案内によると樹齢1000年、

弘法大師お手植えとも

伝わるそうで、

見るからに神が宿った感じが

素晴らしい巨木です。

根本の大きな膨らみの。

神様はこの中に宿ってる?

もうすぐ産まれる?(笑)

熱田神宮の歴史

参道に戻ると、

熱田神宮の歴史を案内する

パネルがズラリ並んでいて、

各案内を抜粋していくと

次のようになります。

神話と歴史でたどる

熱田神宮千九百年の歴史。

「熱田神宮は草薙神剣

(くさなぎのみつるぎ)を祀ってより

1900年を迎えました。

御剣はもと天叢雲剣

(あめのむらくものつるぎ)といい、

素盞鳴尊が出雲国簸の川上にて

八岐大蛇を退治し

その尾より出現しました。

御剣は天照大神に献上された後、

瓊々杵尊降臨の際に

三種の神器の一つとして

以降宮中にとどめられました。

第10代崇神天皇のとき、

鏡と剣は宮中よりお出になり

倭笠縫邑(奈良県桜井市)で祀られ、

第11代垂仁天皇のとき

伊勢の神宮にご鎮祭されました。」

「御祭神の熱田大神とは、

三種の神器の一つである草薙神剣を

御霊代としてよせられる

天照大神のことです。」

草薙神剣誕生。

「第12代景行天皇の皇子

日本武尊(やまとたけるのみこと)は

東国平定の命を受け、

伊勢の神宮に参拝し

倭姫命(やまとひめのみこと)から

天叢雲剣と燧(ひうちいし)を授けられ

尾張国火上の里の

国造、乎止与命の館に立ち寄られて

征討に向かわれました。

駿河国(静岡県)で

狩りをされていた時、

賊は野に火を放って

尊を焼き滅ぼそうとしました。

尊は御剣で草を薙ぎ、

燧で向かい火を点け、

賊を滅ぼされたので、

この御剣を草薙神剣と称するようになり、

その地は焼津(やいず)

(静岡県焼津市)といわれます。」

僕たちは6年位前、

日本武尊をご祭神とする

焼津市の焼津神社を参拝していますが、

きっと妻は忘れているでしょう(笑)

左の飛鳥時代には、

先程の草薙神剣の盗難と

先述した「オホホ祭り」のことなどが、

書かれています。

中世 武家政権のころ。(左側)

「武士が台頭するころ、当神宮の大宮司

藤原季範の娘(由良御前)が

源氏の棟梁源義朝に嫁ぎました。

その子供が征夷大将軍となった源頼朝です。

頼朝は当神宮を篤く崇敬し、

鎌倉の鶴岡八幡宮に

熱田社を勧請しました。」

頼朝の絵の下に、

頼朝生誕の地が紹介されています。

実はこの案内、妻だけが記憶していて、

後から車で走っている時、一瞬の間に、

実際の生誕地を見つけるという

大殊勲(笑)をあげるのです。

中世 南北朝のころ(右端)

「熱田大宮司は、

第96代後醍醐天皇の

武臣として仕え、

熱田大神の神威を背景に

その勢力をのばしていました。

一方、足利尊氏は、

先祖が、熱田大宮司家に

つながるという縁と、

神剣を祀る社から建武2年(1335)

権宮司田島氏に

戦勝祈願を依頼しています。」

左端の「室町時代 足利将軍」には、

前編で書いた、

二十五丁橋についても

触れられています。

ここから戦国時代の三英傑登場!

右から織田信長、豊臣秀吉、

徳川家康の順で案内されています。

■織田信長

織田信長と熱田神宮といえば、

やはり「信長塀」。

桶狭間へ向かうまえに参拝し、

戦勝のお礼に寄進されたもの。

桶狭間のの戦いには、

大宮司千秋季忠も参加したと

書かれているので

気になって

Wikipediaで調べると

千秋季忠は今川本隊との戦いで

討死しています。

■豊臣秀吉

信長ほどのエピソードは無いものの

やはり崇敬し、庇護しています。

■徳川家康

「徳川家康は幼少のころ、

熱田町の加藤図書助

(ずしょのすけ)宅に

織田方の人質として3年ほど

幽閉されていた事から、

熱田には特別な思いがありました。

1598年、米500石を寄進、

1600年、本宮・別宮八剣宮などの

社殿の修復造営を命じています。

鎮皇門は加藤清正による造営です。

熱田町は神領地として

年貢や諸役などが免除されました。」

この中で注目は真ん中、

「江戸中期 貞享の大修理」です。

「1600年、

慶長の造営が行われたのち、

社殿の修復は行われませんでした。

ようやく1686年、

第5代将軍徳川綱吉の命により

80年ぶりの修復造営ができ

境内は一新しました」

綱吉さん、犬公方様として有名ですが、

いい仕事していますね!

綱吉の生母、桂昌院も

内宮(伊勢神宮)の

御手洗の石畳を寄進していますし、

親子で神道への崇敬が

篤かったのでしょう。

明治期。

真ん中の「造営」。

御社殿が、

江戸時代までの尾張造から

伊勢神宮と同じ、神明造に

建て替えられています。

やはり三種の神器が鎮まる場所は、

伊勢神宮のデザインに合わせようとした

政府の意向が働いたのかも知れません。

この後、現代までの案内もありましたが、

ここではカット(笑)

熱田神宮、内容がありすぎて、

なかなか参拝まで行きつけません(汗)

(後編へ続く)

 

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