備中国分寺(岡山県総社市)前編
吉備路の象徴的建物
岡山市から総社市にかけてを
通称「吉備路」といい、
この沿線には、
最上稲荷、備中高松城、足守陣屋、
備中国総社宮、備中国分寺、
鬼ノ城など数多くの
史跡がひしめいています(笑)
その吉備路の象徴的な建物が、
国分寺の五重塔でしょう。
五重塔遠景
駐車場を降りると、
既に五重塔は見えています。
刈田と五重塔、
なんか良い感じですね~!
少し近づいて撮影。
平山郁夫画伯も
ここから五重塔を眺めたそうですよ。
西南側からの遠景。
この日は白梅が満開で、
五重塔をいっそう
引き立ててくれています。
ズームで撮影。
国分寺遺構
五重塔の遠景を楽しんだ後は、
遺構を散策します。
まずは案内を確認。
要約すると、
「天平13年(741)、
聖武天皇の「国分寺建立の詔」により、
ここ備中にも国分寺と国分尼寺が
建てられ、
発掘調査により、
南門、中門、築地土塀、
建物、井戸の跡が発見されました。
当時の金堂、講堂、塔は
現在の国分寺境内に
あったと考えられますが、
詳細は不明です。
出土した瓦から、
備中国分寺の創建は8
世紀中ごろと考えられます。
中世に衰退し、
その後江戸時代中期に
日照山国分寺として再興されました。」
このようになります。
奈良時代、
聖武天皇が開基した頃の国分寺跡。
「井戸跡」
「木をくり抜いて井戸枠にし、
口径は130cm×60cmで、
外側には板で外枠が設けられていた」
このように書かれています。
「築地土塀」
案内を書き出すと以下になります。
「創建当時の備中国分寺では、
寺域の周囲に幅1.2~1.3mの
築地土塀が築かれていました。
築地土塀の巡る範囲は、
東西約160m、
南北約180mで
南辺中央に南門が建てられていました。」
この辺りは門が建っていた場所です。
「南門跡」
案内を書き出すと以下になります。
「備中国分寺の正門にあたる
この門跡には、
三個の礎石が現存しています。
そのほかの礎石は抜き取られていますが、
礎石に下部に詰めていた
根石が残っており、
門の規模は、間口五間、
奥行きニ間であったことがわかります。
門の両脇には築地土塀が
東西方向へまっすぐ取りついていました。」
礎石。
1300年近く前のものでしょう!
「中門跡」
案内を書き出すと以下になります。
「現存する礎石は一個だけですが、
礎石を抜き取った穴と
礎石の下に詰めていた根石が残っており、
南門と同じく間口五間、
奥行きニ間であったことがわかります。
しかし、礎石の間隔が南門とくらべて
やや広く、建物も
やや大きかったと思われます。」
中門の礎石&五重塔。
この後は、
本堂界隈、そして五重塔へ。
(後編に続く)