備中国分寺(岡山県総社市)後編

 

聖武天皇の遺産

歴代の天皇の中でも、

現代まで続く、

多くの遺産を遺したのは、

聖武天皇が一番かも知れません。

聖武天皇が建てた東大寺

光明皇后が天皇の遺品を納めた

正倉院はその最たるものですが、

聖武天皇が全国に建立した国分寺も、

建設当時の位置に金堂が建つ、

周防国分寺をはじめ、

今回訪問した備中国分寺も含め、

内容は変われど、

かなりの数が存在し、

そのお陰で、

現代に生きる僕たちも

楽しませて貰っています(笑)

山門から境内

五重塔の遠景を楽しみ、

国分寺の遺構を巡り、

その後、本堂へ。

山門。

門の左右には、

それぞれ石碑が建っています。

向かって右側。

「日照山国分寺」の寺号表、

その台座には

「善男善女」と刻まれ、

側面には

「倉敷観龍寺」の文字も見えています。

向かって左側の石碑は、

享保十一年(1726)

徳川吉宗時代の建立で、

「不許くん酒肉入門内」と

刻まれています。

くん」とは、

匂いの強く精力のつく野菜の事。

煩悩を呼び起こし、

修行の妨げとなるものは、

この中に入れてはいかん!

というお達しですね。

俗にまみれた(汗)僕たちも

修行のお邪魔にならないよう

気をつけなきゃと思いつつ

山門をくぐります。

江戸時代建立の鐘楼。

奈良時代創建時の礎石の上に

五重塔に寄付した人を刻んだ

石碑が建てられています。

碑文からして、

恐らく明治時代のものなんでしょうが、

この頃は、

貴重な奈良時代の礎石に対し、

文化財的な意識は

あまりなかったみたいですね。

そして、

さらなる礎石の再利用がこちらです。

なんと、

お地蔵様のお立ち台として

礎石が利用されています!

考えようによっては、

奈良時代の礎石が、

令和の世の中でも

「現役」として活躍しているということ、

礎石さん、

1300年間もお疲れ様、

これからもよろしくね!

境内全景。

本堂へ。

本堂手前、

文政九年(1826)建立の

仏様(左側)と

小さなお仏様にご挨拶。

参拝。

大師堂にて、

弘法大師様にご挨拶。

本堂真向かいの宝篋印塔。

向かって右の石碑には、

「敬造立五重大塔入佛供養石」

左には、

「奉?薬師如来長日護摩ニ萬日供養」

このように刻まれています。

(?は読めない文字)

右が勅使門、

後ろの建物が、客殿で、

いずれも江戸時代の建物です。

五重塔

次に五重塔周辺へ。

「国指定重要文化財

備中国分寺五重塔」

案内を要約すると

「江戸時代後期の文政4

(1821)年に建設が始まり、

弘化元(1844)年頃に

完成したと考えられます。

現在の塔の位置は、

奈良時代に建立された備中国分寺の

西側築地土塀の中程にあたります。

塔の総高は約34.3mで、

三層までは欅材、

四、五層が松材主体の木造本瓦葺で、

青銅製の相輪が立てられています。」

このようになります。

23年間もの歳月をかけ、

途中、高級木材の欅から

松へと木材の質も

変わっている事からして、

予算がなくなりかけたり、

建築工事が中止される危機が

あったかも知れません・・・。

それでも建立にこぎつけたのは、

人々の「意志の力」があってこそのもの。

よくぞ建ててくださいました!

正面。

背面。

斜めから。

ここからは、案内に書かれていた、

「蟇股に施された

十二支の禽獣彫刻」を確認へ。

左から

「龍」 「兎」 「寅」

写真では小さくてよくわからんか?(汗)

「丑」 「子」 「亥」

「戌」 「酉」 「申」

「未」 「午」 「巳」

これにて、コンプリート(笑)

五重塔バックにツーショットで参拝完了。

地元グルメ

浜松餃子以来、

地元グルメにご縁がある僕たち、

今回の旅もご縁は続いています(笑)

駐車場前のお店、

「吉備路もてなしの館」。

こちらは、鉄棒・・ではなく(笑)、

サイクリストに有りは難い

自転車スタンドを完備。

空気入れまでもあるんですね!

「小さな酪農家のまじめなアイス」

背景ボケですが、

一応・・五重塔とのコラボです(笑)

僕は、黒豆きなこ、

妻は、ラムレーズン、

大変美味しゅういただきました!

 

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