大聖寺(一色城)今川義元公墓所

点在する墓
今川義元のお墓は、
愛知県内を中心に各地に点在し、
それぞれに所以はあるようです。
まあ、真実云々は別に、
故人に思いを馳せる行為自体、
本物とかそうでないとかは、
さほど重要ではないかも知れませんが、
ここ「胴塚」に関しては、
嫡男、今川氏真さんが義元公の三回忌を
このお寺で行ったという歴史を考えると
やはりこの付近に葬られたのかと
僕自身は感じています。
今川義元公墓所
大聖寺界隈には、
いくつもの案内があり、
細い路地のような道にも関わらず、
全く迷うことはなく、
義元公への地元の皆様の想いが
ダイレクトに伝わってきます。
「牛久保史跡巡り」
こちらも素晴らしいマップですね!
山本勘助の墓もお参りしたかったけど、
時間の配分上パスすることに・・
大聖寺に到着。
境内へ入り、まずはお墓を目指します。
墓地への参道。
廟所門前。
三界萬霊塔にご挨拶。
中へ。
義元公のお墓は木々に覆われ、
ここだけが特別な場所という感じですね。
まずは案内を確認。
「今川義元公墓所」
案内を書き出すと
以下になります。
「戦国時代の駿河・遠江・三河の領主
今川義元は永禄三年(1560)
五月十九日、
尾張桶狭間の合戦で
織田信長の奇襲にあって討死しました。
その時、首をとられた
義元の胴体を家臣が背負って
当地まで逃れ、この寺に葬って、
とりあえず石の手水鉢をのせ
墓石の代わりにしました。
それが「義元の胴塚」と言われる由来です。
嫡子上総介氏真は永禄六年(1563)
父義元の三回忌をこの寺で営み、
父の位牌所として寺領を安堵しました。
その後は、墓は整備され、
毎年義元の命日には、地元の人々により
慰霊祭が行われています。」
墓所正面。
斜め右から。
石玉垣は半分近くが
真新しいもので、
ここにも大切にされていることが
感じられます。
扉は自由に開けられるので
中に入って参拝。
その後、
「墓石の代わりの手水鉢」を確認します。
お〜あった〜!
手水鉢を横に寝かせて、
台座としています。
これを見て
家臣が義元公を埋葬している映像が
目に浮かんできました・・
一色刑部の墓
次にもう一人の主、一色刑部の墓へ。
「一式刑部の墓」
以下、案内です。
「室町時代足利の一族
一色刑部小輔時家の墓である。
永享十一年(1439)、
宝飯郡長山村に築城して一色城と称した。
此処の窪地に大牛が横臥していた因縁により
牛頭山大聖寺を城郭内に建て
牛頭天王を祀った。
文明九年(1477)時家は、
豪臣、波多野全慶に殺され、
十六年後には全慶も亦、
牧野古伯に討たれ城主は牧野氏となる。
永正二年(1505)古伯、吉田城を築いて
豊橋へ出で次男成勝を瀬木城より呼んで
城主として。之より牛窪城と改まる。」
古伯さんも吉田城を築いた翌年、
討死していますから、
戦国時代というもの
勝利の一寸先は闇・・です。
参拝。
本堂など
お墓参りの後、
ようやく(笑)本堂へ。
参拝。
弘法大師像(多分)
この回廊両脇に仏像が並んでいます。
全部に参拝できないので、
なんとなく頭を低くしながら歩きます(笑)
線路沿いなんですよ、ここは!
電車とのコラボ、
撮り忘れています(汗)
この後、
西尾市、東向寺にある義元公の首塚へ。