圓福寺・大可島城(2019年福山の旅)
3つある呼び名
「圓福寺・大可島城」という表題には、
まだ補足があります。
大可島城の城跡に建立された
圓福寺の本堂は、
夾明樓(きょうめいろう)とも
呼ばれていて、この名前は
江戸時代の学者、
頼山陽の叔父である頼杏平が
ここの景色を称賛して付けたもので、
ネットで検索して画像で見ると、
本堂内には頼杏平が書いた
「夾明樓」の扁額もありました。
(本堂の公開は秋の一時期のみ)
ですから正確にはこれも加えて、
圓福寺・夾明樓・大可島城となります。
ただ長過ぎるので割愛しました(笑)
夾明楼へ
對潮楼から狭い路地を抜けると
かつて島だったころの
断崖絶壁が見えてきます。
「夾明樓上り口」の石碑。
見えにくいですが、左側面には、
「森下博建立」とあります。
この人は、森下仁丹の創業者で、
鞆町出身の方なのです。
崖の上の・・・レストラン(笑)
ネコの看板に癒やされていたら、
こんなものを発見。
ネコの募金箱。
このあたりは有名なネコスポットのようです。
通り掛かる人たちの志が
ネコちゃんたちの健康を維持しているという
凄い場所なんですね!
そして、その裏で僕たちを待っていたのは、
こちらのネコちゃんです。
いらっしゃい~!
そう言ってくれているかのように
僕たちを見つめる白ネコ。
そして少し行くと圓福寺の
案内が見えてきます。
こちら側からの道とは反対に
参道的な階段からも撮影しました。
鳥居の向こうに本堂が見えます。
右側の石垣みたいなのは、
大可島城の遺構かもしれませんが、
ここからは立入禁止だったので、
詳しくはわかりません。
本堂(夾明樓)。
ここは、江戸時代、
朝鮮通信使の宿舎として
使われていました。
そして、その江戸末期、
いろは丸事件の時、
いろは丸の衝突相手だった
紀州藩の宿舎となっています。
当時陸続きではあったものの
ここは元々は島であり、
断崖絶壁に囲まれていて、
見張りもやりやすそうな場所で、
身を護るのにはもって来いの好立地。
推測ですが、徳川御三家の紀州藩も
坂本龍馬率いる海援隊には
ビビっていたのかも知れませんね(笑)
参拝。
案内によると、
今の本堂は昭和初期に再建されたものでした。
僕たちが對潮楼から歩いて来た道は
先程も書いたように
元はと言えば海で、慶長年間、
1600年頃陸続きになっています。
その「島」だったころの
大可島城の鳥瞰図がこちらです。
(画像元:余湖くんのホームページ)
島全体が城になっていたようですね。
こちらは、医王寺から見た
圓福寺・大可島城。
鞆城から見た圓福寺・大可島城。
本堂の立派な屋根は、
遠くからも確認できますし、
昔、島だった面影もありますね。
そして、その圓福寺本堂裏からの
眺めがこちらです。
弁天島、仙酔島などが見え、
瀬戸内海を満喫出来る景色です。
これで、圓福寺・大可島城の散策は完了、
200年前に造られたという
次なる目的地「大波止」を目指し
山(崖?)を降ります。