延暦寺・西塔(釈迦堂)

 

仏の成せる業

延暦寺の西塔の中心である釈迦堂は、

豊臣秀吉によって、

三井寺(園城寺)の金堂を

移築したものだと知ったのが、

数年前のこと。

ずっと気になっていましたが、

遂にご対面の時は訪れたのです。

移築された当時、

延暦寺と敵対してきた三井寺は

何故か秀吉の逆鱗に触れ、

「取り潰し」にあっていますので、

その「逆鱗」の産物が、

延暦寺の釈迦堂とも言えそうです。

ただ取り潰された数年後、

秀吉は死の床にあって園城寺の復活を許し、

その直後、正妻のねね(高台院)が

園城寺に新たな金堂を建立して、

それが今では、

国宝にまでなっていますので、

国宝を建てるために

取り潰したようなもの?

とは言い過ぎですが、

結果として両寺ともに、

由緒ある歴史的建造物が残った事は、

ある意味、

仏の成せる業とも言えそうです。

釈迦堂

西塔での最終目的地、

釈迦堂へ。

石段の下が釈迦堂の境内です。

石段から釈迦堂を望む。

結構奥まった場所に

建っているんですね。

清浄な水が湛えられた手水鉢。

釈迦堂に参拝。

ここには新旧二つの案内板があリます。

令和二年の新しいもの。

こちらは多分古いもの。

二つの案内をミックスさせると

以下になります。

「転法輪堂(釈迦堂)【重文】」

「転法輪堂は

現在の西塔の中心をなす大堂で、

ご本尊に釈迦如来を祀ることから、

釈迦堂の名で親しまれています。

延暦寺に現存する最古のお堂で、

織田信長の焼き討ち後の復興により、

元は大津の園城寺(三井寺)の

金堂(弥勒堂)であったものを

豊臣秀吉の命により、

文禄四年(1595)に

山上に移築したもので、

造営年代は園城寺の記録から

南北朝の貞和三年(1347)と

認められます。

細部様式もその頃をよく現しており、

根本中堂と同じく天台様式の典型で、

内陣は土間中央に本尊を安置する

宮殿を壇の上に設けています。」

文禄四年(1595)と言えば、

秀吉が甥の秀次を高野山で切腹させ、

その妻や側室、子供などを

大量に殺した年・・・

釈迦堂の移設の時期は分かりませんが、

もしかしたら、

三井寺(園城寺)は、秀次を

擁護したので、秀吉の怒りを買い、

領地を没収され、

金堂(釈迦堂)は

ここにあるのかも知れません。

釈迦堂の近くには、

九条武子の歌碑が

あったようです・・・

あまり興味がないものは

目に入らない習性ですから(笑)

釈迦堂前の巨大な杉と妻。

こちらは凸凹に妻が注目した杉。

絵看板

延暦寺と言えば「絵看板」。

比叡山延暦寺を開いた

伝教大師最澄はじめ、

名を残した高僧たちが

絵と文により紹介されています。

この釈迦堂前には、

「お釈迦さまの生涯」の

絵看板が万全を期して、

僕を待っていました。

一枚ずつ文章を抜粋していくと

以下のようになります。

「釈迦伝1 太子誕生」

「今から2500年ほど前、

ヒマラヤの麓のカビラ国の浄飯王と

后摩耶夫人との間に誕生されました。

カビラ近くに住むアシタ仙人は、

太子を抱き、涙して

「この方は王位につけば

仏陀となられる方です」と予言した。」

「釈迦伝2 宮殿の生活」

「ご成婚後、

太子は平和な生活を送られた。

三つの宮殿、

庭園には色とりどりの花が咲き、

歌と舞と酒とご馳走の享楽を

ほしいままにした。

太子は「この生活は自分にとって

どんな意味を持つのか・・・」と

反省され

沈鬱な日々を重ねるように

なっていきます。」

「釈迦伝3 苦行」

「世の無常をまのあたりに見た太子は、

周囲の人の言も聞かず出家します。

出家修行の旅に出た太子は、

真の道が得られぬまま

六年間の苦行の生活に入ります。

体はみるみるやせ衰え、

手足は枯れた葦のようになります。

それでも苦行はすべて

解脱への道ではないことを悟り、

太子は新たな道を求めるのでした。」

「釈迦伝4 降魔」

「太子の成道じょうどうが近づいてきました。

魔王は妖艶な魔女、悪鬼夜叉など、

あらゆる手段で成道を邪魔しますが、

太子は毅然として説法し、

それらは逃げ去りました。」

「釈迦伝5 釈尊の成道」

「太子は、平等の思いにひたります。

過去の宿世を想い起こして、

初めに第一の智慧を悟ります。

次に生死の相を知る

第二の智慧を体得します。

次に煩悩を滅ぼし尽し解脱して、

「成すべきことは終わった、

再び迷いの生を受けることはない」と

悟ります。

こうして太子は、

世界の人々の供養を受けるにふさわしい人、

正しい悟りを得た人、即ち仏陀となります。

時に35歳、

12月8日の明けの明星が

きらめいていました。

尼連禅河のほとりの菩提樹の下で、

太子は「正覚しょうがくを得た人」になったのです。

今後太子を釈尊と呼びます。

釈尊を修行中から崇拝していた

マガタ国の頻婆娑羅王は、

多くの従者をつれて訪れ、説法を聞き、

王は城外の閑静な場所竹林園に

精舎(寺)を建てて

寄進したいと申し出ます。

これが仏教の最初の精舎で、

教団の発展もここから

軌道に乗ってゆくことになります。」

釈迦って王子様だったんですね!

初めて知りました。

それにしても豪著な生活に疑問を抱き、

苦行するなんて、

やはり歴史に名を残す人は、

次元が違います。

僕ならば、

その生活に溺れているうちに

国を滅ぼす王子になったでしょう(笑)

絵看板の横にある釈迦牟尼佛に参拝。

鐘楼

思った以上に濃かった釈迦堂(笑)

あと一つ鐘楼を確認。

石段の上に鐘楼が見えていますが、

もはや登る気力は無し・・

ズームで撮影し拝観完了。

西塔の駐車場目指し帰路へ。

(続く)

 

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