金剛峯寺(高野山)

 

意外と新しい名前

高野山金剛峯寺といえば、

弘法大師空海から続く寺名かと思いきや、

なんと、

明治元年に変更された名前でした。

それを知ったのはこちらの案内です。

金剛峯寺の案内。

「金剛峯寺

西暦1131年(天承元年)

10月17日に覚鑁上人が

鳥羽上皇の許しを得て大伝法院を建立。

その後豊臣秀吉が

亡き母公の菩提を弔うため、

木食応其上人に命じて、

建立したことに始まります。

当時は、秀吉公の母公の

剃髪が納められたため、

剃髪寺と名付けられたそうですが、

のちにその名を青巌寺と呼び

応其上人の住坊となりました。

その後は、法印御房の住坊となり

栄華を誇りましたが、

再三の火災によって焼失し、

現在の本殿は西暦1863年

(文久3年)に再建されました。

西暦1868年(明治元年)に

行政官から青巌寺を金剛峯寺へ

改号するよう指導され、

さらに興山寺というお寺を

庁舎として使用することになりました。

その後、この二つのお寺は合併され、

総本山金剛峯寺として

現在に至っています。」

このように書かれています。

空海が開基した当時は、

別の名前だったのでしょうか?

ここに書かれている覚鑁上人は

根来寺の創建者。

その根来寺を焼き払ったのが秀吉。

その後、応其上人の功績で、

高野山は秀吉と和議を結び、

その後、応其上人を気に入った秀吉は、

高野山と仲良しに(笑)

秀吉さんの功績、高野山において、

かなり大きいようですね。

金剛峯寺

朝7時過ぎに到着した奥之院で

大幅に予定時間を超過し、

金剛峯寺に向かったのが、

午後1時半・・・

朝4時半過ぎに、

パンを一つ食べて以来

何も食べていない僕達のお腹は

もうペコペコ(笑)

しかし、

この界隈にはコンビニも見当たらず、

うどん屋を見つけるも満杯で入れず、

他に食べる場所もありません。

仕方なく、

大いなる煩悩を抱えつつ

金剛峯寺へ向かいます(笑)

金剛峯寺正面。

山門。

冒頭の案内では、

「金剛峰寺山門

金剛峯寺の建物の中で一番古く、

西暦1593年(文禄2年)に

再建されたものです。

昔はこの門を正面から出入りできるのは、

天皇・皇族、当山の重職に

限られていました。

今でも一般の僧侶は、

右の小さな入り口を

もっぱら利用しています。」

このように書かれています。

山門をくぐって、境内へ。

手前の鐘楼は、

元治元年(1864)の再建です。

雨は強まるばかりですが、

ここはまだほんの序の口でした(笑)

僕達の旅は晴天が多いのですが、

たまに大雨が降るときには、

不思議に「それ相応以上の見返り」を

もたらせてくれるのが常。

だから正直「ブルーな気持ち」には

全くなれません(強がりでもない・・笑)

やはり忘れられないのが、

数年前に行った島根県の出雲大社

そして、昨年参拝した

山口県新南陽市の

山崎八幡宮での土砂降りの大雨です。

どちらも「大雨でホントに良かった!」の

代表例ですからね(笑)

伽藍の建物屋根に注目。

テレビでも見ていた天水桶。

お寺のサイトには、

「普段から雨水を溜めておき、

火災が発生したときに、

火の粉が飛んで屋根が

燃えあがらないように

桶の水をまいて湿らし、

少しでも類焼を食い止める

役割を果たしました」

このように書かれています。

この日の天水桶には、

特別に沢山の水が

溜まったはずです(笑)

左の入母屋破風の屋根が大玄関で、

天皇・皇族や高野山重職の専用。

右の唐破風が小玄関で、高野山の

上綱職(じょうこうしょく)専用です。

(現在は山門と同じく関係ないかも)

柳の間

拝観料を納めて中へ。

妻の最初のお目当ては、

豊臣秀次が切腹した「柳の間」です。

途中の庭園。

柳の間は撮影禁止なので、

写真はありませんが、

お寺のサイトによると

「山本探斉(やまもとたんさい)による

柳鷺図(りゅうろず)が

描かれていることから

柳の間と呼ばれています。」

このように書かれ、

実際に白鷺が二羽描かれていました。

蟠龍庭(ばんりゅうてい)

お寺のサイトによると

「この石庭では、

雲海の中で向かって左に雄、

向かって右に雌の一対の龍が向かい合い、

奥殿を守っているように表現されています。

龍を表す石は、

お大師さまご誕生の地である

四国の花崗岩が、

雲海を表す白川砂は京都のものが

使われています。

このように書かれています。

龍・・・

何となく分かったような気がします(笑)

真然大徳廟

ここには空海の後を継いで、

高野山第二世となった

真然大徳の廟があります。

真然大徳の肖像画。

案内によると

「真然僧正は讃岐国の佐伯氏に生まれ、

弘法大師の甥にあたる。

高野山第二世として

高野山の経営に従事すること56年。

大師の理想を受け継ぎ、

伝法会の基をひらき、

次の時代の大才覚鑁上人に

大師の精神を伝えた。

昭和63年11月真然大徳の

舎利器が出土して、

ここが真然廟であることが明らかになった。」

このように書かれています。

空海さんと同じ、「佐伯さん」が

二代続いたという訳ですね(笑)

真然大徳廟へ参拝。

その後、すぐ横の扉で見つけたのが、

高野山の二つの寺紋です。

何やら説明が・・・

案内によると

「三頭右巴紋は高野山の鎮守・

丹生都比売神社の定紋。

五三の桐は豊臣秀吉拝領の

青巌寺の寺紋。

一般に寺紋は一つですが、

金剛峯寺はこの二つで

寺紋とされています」

このように書かれています。

なるほど~!

これはちょっと感動ですよ。

丹生都比売神社は、

弘法大師空海さんが、

お寺を作る広大な土地を

譲ってくれた神社だし、

秀吉さんは、荒廃していた高野山を

復興した人ですからね!

これ一つとっても金剛峯寺が

いかに「ずっと旧恩を大切にする」お寺かが

よ~くわかりますし、

ますます高野山や空海さんが

大好きになってしまいますよ(笑)

断崖図・瀧図(襖絵)

次は妻のお目当て第二弾、

越前和紙を使って描かれた

千住博画伯の襖絵、断崖図と瀧図へ。

右が断崖図、左が瀧図。

断崖図。

断崖図、その2。

瀧図。

繊細な図柄に感動してしまいます。

室内向かって左側の襖絵。

実は、瀧図のある部屋の真ん前には、

雨樋などから流れる雨水を

各方面からひとまとめにして

流す場所があるのですが、

この瀧図を眺めている時、

雨がさらに激しくなり、

そこに流れ落ちる音が、

まるで、「大きな瀧の流れ」のように

聞こえるのです!

この案内の下に見える板の隙間の下が、

雨水を流す場所です。

断崖図と瀧図の構想などの案内。

正直、僕はこの時、

下の瀧の音に集中しすぎて(笑)

案内をよく読んでいません。

もしかして、

千住博さんも、

この雨音を瀧の音として捉え、

瀧図を配置したのかも知れません。

台所

最後に見たのは台所。

今は見学ルートの一部で

現役ではないようです。

「二石釜」

三個の釜で一度に二石(280kg)、

約二千人分のご飯が

炊けると書かれています。

高野山、凄すぎますね!

雨宿りしながら(笑)

ツーショットで参拝は完了。

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください