延暦寺・慈覚大師円仁廟(参拝編)
慈覚大師円仁
その昔、教科書で円仁派(山門派)、
円珍派(寺門派)で、
名前を覚えただけの
慈覚大師円仁ですが、
令和5年9月、
山形県の立石寺(山寺)に旅した時、
その立石寺を創建したことが、
慈覚大師円仁の業績の一つだと知りました。
立石寺には、
一般人は近寄れない
入定窟という巌窟があり、
慈覚大師が埋葬され、
調査により遺骨や
頭部の木像も発見されています。
こちらは立石寺の納経堂と
その下に入定窟のある崖です。
僕たちは、
遠くから遥拝しましたが、
頭蓋骨は比叡山延暦寺のお墓に
埋葬されているので、
両方を参ってはじめて
「お墓参りは完結」します。
このような経緯があって、
比叡山延暦寺での主目的は、
慈覚大師円仁廟の参拝となった訳です。
延暦寺の
東塔地域・西塔地域・横川地域には
伝教大師最澄をはじめ、
業績のあるお坊様達の紹介が、
「絵看板」として、ズラリと並べられ、
その一つ横川には、
円仁さんもいらっしゃいます。
案内をかいつまんで書くと、
「慈覚大師円仁(794〜864)
天台宗延暦寺 第三世座主
十五歳の時比叡山に登り、
伝教大師に師事して
天台の教えを学んだ。
根本如法塔を建てるなど
横川の基をさだめた。」
このようになります。
補足して書くと、
先ほどの山形の立石寺の他、
岩手の中尊寺、毛越寺
宮城の瑞巌寺を創建し、
現在では、
この四つの聖地は合わせて
「四寺廻廊」と呼ばれています。
迷い子からの復活
道標の標柱を見逃した事で、
道を間違えてしまい、
結果、予定外の
檀那先徳御廟(覚運の墓)を参拝した後、
ようやく間違いに気づき、
一旦引き返す事に。
赤色の道が「正解」のコース。
青色が間違って下った道です。
同じ道(オレンジ色)を辿り
再び聖尊院堂へ。
聖尊院堂の石段。
ここまで戻るだけでも
凄い急坂をかなり歩くため、
めっちゃ体力を消耗しています(汗)
そして、
周囲をキョロキョロして
一回目には見逃した道標を
今回は執念で発見。
お〜あった〜〜!!
「慈覚大師御廟道」の文字。
迷い子からの復活、
もう感動しかありませんね(笑)
修験道的な参道
ここからは、
修験道とも言えそうな、
かなりスリリングな道が続きます。
素人が歩いて良いのか
それとも良くないのか?
でも既に来てしまったし、
行くしかありません(笑)
この先に本当にあるのか?(笑)
ネットで調べた先人の記録
「途中にお坊さんたちの墓が
見えてくる」
「その先に円仁廟はある」
こんな言葉だけを頼りに
ひたすら歩いていると・・・
あった〜!お墓だ〜!
お墓を見てこんなに感動したのは、
人生初のことでしょう(笑)
亡くなった僧侶達が、
まるで両脇のお墓から
慈覚大師円仁廟への参道を
お護りしているかのような風景ですね。
両脇をお墓にガッチリ固められ、
緊張気味に通過(笑)
そして、またまた急坂が登場。
妻と二人して、
「何だかお城の堀切を歩いているみたい」
そんな会話をしたのを覚えています。
慈覚大師円仁廟
そして、遂にその時が・・・
こちらもお城の土橋のような道。
先には鳥居が見えています!
やった〜!着いたぞ〜!
「慈覚大師御廟」の標柱に
声をあげて歓喜する僕たち(笑)
鳥居の扁額の「慈覚大師」にも
またまた感動!
慈覚大師円仁廟の正面全景。
遂に来ましたよ、円仁さん!
ここで参拝。
墓石。
斜めからも撮影。
真後ろから撮影し、
円仁さんの気持ちになって
比叡山を眺めてみます。
(木が茂ってよく見えないが・・笑)
帰路
さて、
帰り道はひたすら「登山」。
何としてでも生きて帰らねば(笑)
鳥居をくぐって修験道へ。
この辺りからは
少しですが琵琶湖が見えます。
木の根っこ、石ころ、
とにかく凄い道を戻ります。
途中、
土塁みたいなところからは、
琵琶湖や近江富士と呼ばれる
三上山が見え、ホッと一息。
またまたお墓の間を
緊張気味に通過。
ようやく聖尊院堂付近に到着。
石垣からして、
昔は大規模な僧坊があったのでしょう。
もうすぐ法然堂。
ここまで来れば、
あと少し・・・
そして、
遂に現世に(笑)戻ったぞ〜!
慈覚大師円仁廟参拝という
最重要ミッションを終え、
達成感というのか、
とにかく妻の一番の望みが
実現出来た喜びしかありません(笑)
(続く)