寛永寺旧本坊表門(東京都)
アナを見たい
上野公園の大部分は
寛永寺の寺域でしたが、
その伽藍の多くは、
幕末の戊辰戦争の一つである
上野戦争で焼失してしまいました。
ただ、その中でも
幸運にも生き残った遺構が、
上野公園には点在し、
その一つが、
開山堂の敷地に移設された
「寛永寺旧本坊表門」です。
門扉には当時の弾痕穴が
残っているという情報に
「アナを見たい」(笑)の一心で、
訪問を決定した次第です。
江戸時代初期の井戸
開山堂の本堂参拝後、
寺域内の外れにある
寛永寺旧本坊表門へ。
少し行くと、
右側に鐘楼と井戸が見えたので、
ちょっと寄り道を。
鐘楼。
土台の石積みは切り込み接ぎで、
江戸時代初期からのものでしょう。
そして、
この向こう側の屋根の下には、
古い井戸があります。
井戸周りの敷石は
簾仕上げの豪華版で、
ただならぬ気配を感じ
側面の建立年などを確認すると
凄いことを発見したのです!
「謹 東叡開山」の文字があるので、
この開山堂に寄進されたものでしょう。
途中の漢文は理解不能ですが、
最後に、
「正保二年辛酉十月二日
弟子晃海」
このように刻まれています。
Wikipediaで調べると
正保二年(1645)は乙酉で、
辛酉と刻まれた経緯は
不明なものの
最後の「弟子晃海」に注目。
この方、
天海僧正遺髪塔と共にある
供養塔を建立したお弟子さんですね!
晃海(こうかい)さんの
天海大僧正への思慕、
この井戸からも
ひしひしと伝わってきます・・
この門を潜って右側に
目指す「穴が空いた門」(笑)が
あるのですが、
この小さな門自体が
また歴史的なものなのです。
「幸田露伴旧宅の門」
案内によれば、
谷中にあった旧宅の門を
ここに移築したと書かれています。
寛永寺旧本坊表門
幸田露伴の門をくぐると
穴が空いた門は、
すぐ右手に見えてきます。
ここから目指す「穴」に一目散(笑)
あった〜!
穴の大きさからして
佐賀藩が放ったと言う、
アームストロング砲の弾痕かな?
こちらは同じ上野公園にある
清水観音堂で見た、
アームストロング砲の砲弾です。
直径なども近い感じがしますね。
とにかく
穴のお陰で上野戦争を肌で感じられ、
二人して興奮(笑)
穴の大きさが分かるよう、
妻の手を添えて撮影。
重要文化財なので、
扉に手が触れないようにするも
ちょっとドキドキです(笑)
門の表側から撮影。
案内を書き出すと
以下になります。
「江戸時代、現在の上野公園には、
寛永寺の堂塔伽藍が、
整然と配置されていた。
現在の噴水池周辺(竹の台)に、
本尊薬師如来を安する根本中堂、
その後方(現、東京国立博物館敷地内)に、
本坊があり、「東叡山の山主である」
輪王寺宮法親王が居住していた。
寛永寺本坊の規模は三五〇〇平
(約一・一五ヘクタール)
という壮大なものであったが、
慶応四年(1868)
五月の上野戦争のため、
ことごとく焼失し、
表門のみ戦火を免れた。
これはその焼け残った表門である。
明治十一年、帝国博物館
(現、東京国立博物館)が開館すると、
正門として使われ、関東大憲災後、
現在の本館を改築するのにともない、
現在地に移建した。
門の構造は、切変造り本瓦葺、
潜門のつく薬医門である。
薬医門とは、
本柱が門の中心線上から前方にずれ、
本柱と控柱を結ぶ梁の中間上部に束をのせ、
その上に切妻屋根を乗せた門をいう。
なお、門扉には、
上野戦争時の弾痕が残されていて、
当時の城闘の激しさがうかがえる。」
門横の石垣。
石の積み方は切り込み接ぎで、
簾仕上げ(はつり仕上げ)なので、
これも江戸時代のものでしょう。
穴の見学・・・
いや門の見学を終え、
再び幸田露伴旧宅の門へ。
開山堂を出ると、
来た時にお寺の前で見た
とは違う会社の
「3」がらみナンバーのバスを発見!
なんでここは、3だらけなんだろう?
そう考えた時、
開山堂には正月三日に亡くなられた
「元三大師」が祀られていることを
思い出しました!
元三大師の「三」と
妻のラッキーナンバー「3」、
これって、バスたちが、
歓迎してくれていたって
ことでしょう(勝手な妄想)(笑)