旧斗南藩墳墓の地(むつ市)

 

意思

何事においても「すたれる」のは、

意思を引き継ぐ人がいなくなるからで、

お店でも、お祭りでも、

そして、

祖先のお墓でも同じでしょう。

そんな廃れるというワードとは、

無関係なのが、

ここ旧斗南藩墳墓の地です。

斗南藩がここに存在したのは

今から150年以上も前の

二年に満たない短期間のことですが、

墓域はメンテ抜群の状態に保たれ、

旅人の僕たちでさえ、

居心地の良さを感じるほどです。

それは勿論、

「意思を引き継ぐ人がいる」からに

他なりません・・。

改めて「意思」の大切さを感じた

旧斗南藩墳墓の地訪問でした。

駐車場にて

斗南ヶ丘市街地跡から車で5分、

旧斗南藩墳墓の地に到着です。

道路脇の巨大な案内。

これがあれば迷うこと無し(笑)

駐車場の案内も完璧です。

斗南藩追悼之碑

駐車場から丘上の墓域までは階段と、

迂回してスロープで行く方法があります。

僕たちは健脚なので?(笑)

階段を選択。

目立つ赤の矢印付きの案内。

「導き」という点で、

このお墓はトップクラスですね!

木製の階段が終わると次は石段です。

左側には「東屋」というよりは、

「ガゼボ」と言った方が良いくらい、

モダンな休憩スペースもあります。

あと少しで到着。

まずは案内を確認。

「旧斗南藩境基の地」

「明治元年九月、

朝敵の汚名を着せられたまま

廃藩となった会津藩は、

翌明治二年九月

太政官より家名再興の沙汰をいただき、

同年十一月

松平容大公(数え年二歳)をもって

陸奥国(現在の青森県の三戸・上北・下北の

三郡と岩手県の一部)に

禄高三万石の立藩が許されました。

しかし豊かな会津盆地で生まれ、

そこで育った人々には、

斗南の地はあまりにも過酷で、

「みちのくの斗南いかにと人問はば

神代のままの国と答へよ

斗南藩権大参事 山川浩」

と言わしめたほとでした、

天慈の覆育を祈り

開拓に夢を託した

藩士達ではありましたが、

志半ばにして命を失った者や

この地を去るもが続出したのでした。

ここではわずかに残っております

旧会津藩士墓碑を

斗南ヶ丘唯一生の残りの島影家や

会津ゆかりの人々が、

あたたかく見守っています。」

このように書かれていますが、

やはりここでの肝は、

「島影家や会津ゆかりの人々」が、

ちゃんといらっしゃるという事です。

だからこそ、

むつ市内はじめ下北半島にある

斗南藩ゆかりの地も

お墓同様に守られているのかも

知れませんね。

墓域の奥は一般のお墓で、

一番入口側に、

斗南藩追悼之碑が建てられています。

参拝。

発見

斗南藩追悼之碑にお参りを終え、

駐車場に戻ろうとしたその時、

石畳の道の側に

気になるものを発見!

それは・・・

石畳右側の黒い小さな標柱です。

あ〜・・このお名前は・・・

斗南に残られ、

今もお墓を守られている

嶋影さんと小町屋さんですよ!

令和元年に石畳や階段などを

お二人が中心となり

美しく整備されたのかも知れません。

それにしても

何と控えめなお二方でしょう。

どんな事をしたかも記されず、

まるで、

斗南藩士(会津藩士)達の魂を

地に這うようにして

下支えしているかのような、

しつらえかた・・・

ただ、ただ、

敬服するしかありません・・。

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください