船木護国神社(山口県宇部市)

 

慰霊のあり方

船木護国神社の前身である

とびヶ巣招魂場」について、

山口縣護國神社の宮司さんが

書かれた記事が、

大変興味深いので

かなり長いですが、

抜粋させていただきます。

「(前略)

鳶ヶ巣招魂場の開拓に際しては、

おもしろい逸話が長谷川卒助著

『舟木郷土史話』に記されていますので

以下に紹介しておきます。

〈・・・・この山を開くには

舟木宰判管内の村々から

毎日人を繰り出して勤労奉仕した。

長藩(長州藩)自らの開設につき

厚狭四本松毛利能登も来て

三ツ星の幔幕を張りめぐらし

工事を督励した。

各村ではのぼり太鼓で先年の

「殿様祝」の時のような

お祭り騒ぎでやって来た。

各村から男女手拭頬かむり花笠を着け、

テレンという浅いかごを持って

三味線などもち出ししゃぎって出場した。

四斗樽の鏡をぬいては

酒は飲みほうだい、

見物人は毎日大勢やってきた。

第一日の加勢は万倉である。

ふごに鍬などを持って

地味な身なりでやって来て開墾に従った。

ところが第二日目は小野村であった。

小野村では一同揃いの着物を着て

幟に太鼓を打って余興気分でやって来た。

次いで藤曲の者は船着き場であるので

小舟をかついで

見事な飾りつけをしてやって来た。

それから各村毎日趣向をこらして

余興気分で来るようになった。

最初に来た万倉の者は不平を言い出した。

「沙汰の仕様が悪い、

万倉村の体面にかかる」

というので終わりの日に

余興気分で再度出場した。

こんな風で開墾の方は

あまり仕事がはかどらないので、

最後には人を雇って

開いたということである。・・・・・〉

こうした史話を知るとき、

招魂場の開設が、現代から想像される

慰霊といった厳粛な雰囲気で

行われたのではなく、

郷土の勇者の霊魂を祀る場所を

つくるという、

わいわいした雰囲気、

祭りの雰囲気で行われた場合も

あったことが想像され、

なんとも純朴な幕末期の人々の

心情が窺えるようで、ほっとする。

それに比べると、今日はなんと堅苦しく

招魂場や護国神社を

考えてしまっているように

思われてならない。

慰霊ということに偏重し過ぎていて、

称えるということが

少なすぎるのではないだろうか。

自分が戦死したとして、

慰められ、涙されるばかりでは、

寂しい気がする。

「良くやった」「立派だった」

「犬死にじゃなかったぞ」

「みんなの為に為ったぞ」と

誉め称えられる方が、

慰められる気がするが、

皆さんはどう思われるでしょうか?」

これを読んで、

目から鱗というか、

生きてる我々でも

上手く行かなかったことを

他人から、ただ慰められるよりも

その行為自体の意義について

「褒め称えられる」ことの方が、

圧倒的に活力が出ますからね!

これからの慰霊は、

褒め称える方向で行こうかな(笑)

御社殿

岡崎八幡宮

国道2号線を挟んだ向かい側に

船木護国神社は鎮座しています。

参道。

「日露戦争戦利品陸軍省下賜」

今は、石碑だけが残っていますが、

何かを下賜されていたのでしょう。

手水鉢。

これ、ちゃんと水道水が出ます!

過去の写真を数枚見ると、

今よりも大規模な御社殿あり、

それが老朽化し解体、

一時期更地状態になり

その後、現在の新しいものが

建てられたようです。

参拝。

後から知ったのですが、

御社殿の左後ろに鳥居があり、

そこが招魂場となっているようです。

まあ、

本殿で参拝したので、

御英霊の皆様も

納得してくださっているはず?(笑)

現代的な社殿の

「見本」のようなデザイン。

スッキリして好感が持てますね。

ここでツーショット完了。

宮司さんのお墓

神社向かって左側に

鳥居があったので行ってみました。

お墓やお地蔵様があるようですので、

参拝することに。

古い鳥居をくぐり敷地内へ。

参拝。

お名前からして、

向かいに鎮座する、

岡崎八幡宮の宮司さんの

代々のお墓ではないかと思います。

「舩木大宮司家合祭碑」。

「ふなき」の漢字は、

「船木」「舟木」「舩木」と

文献により違いがあります。

側面に建つ、お地蔵様などに参拝。

次に、

宮尾八幡宮へと向かいます。

 

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