月山富田城(島根県安来市)前編
主役は鹿介?
関ヶ原の戦いの後、
大坂以東は徳川の譜代大名で
固め、豊臣恩顧の大名は、
遠くの西国に配置するという施策のもと
浜松城から出雲国の月山富田城へ
転封となった堀尾吉晴、
石高は上がったものの
東海道の主要都市から
山陰の要衝とはいえ、
陸の孤島のような場所に来て、
何を思ったのでしょうか・・・。
多くの修羅場をくぐり抜けてきた彼ならば、
ゼロから新しい町作りをして
繁栄する藩を
築き上げる事だったはずです。
その強い思いがあってこそ、
築城から400年以上
奇跡的に火災にも戦災にも遭わず、
今に残る松江城天守を遺せたのでしょう。
月山富田城の遺構には、
堀尾吉晴が松江城築城前、
10年ほど居た間のものも
多くあるようですが、
どちらかと言えば、
月山富田城が毛利氏により落城し、
尼子氏が滅んでも再興を願い、
最後まで諦めず、命果てるまで
主家に尽くした忠臣、
山中鹿介幸盛を
フューチャーするお城でした。
長年、月山富田城を本拠とし、
繁栄を築いた尼子氏自体は、
鹿介の忠臣ぶりに霞んでいたかも
知れません(個人的感想)。
千畳平(せんじょうひら)
巌倉寺の堀尾吉晴の墓と
山中鹿介幸盛の供養塔に参り、
その後、攻城を開始。
本丸までの分かりやすい案内板。
まずは千畳平へ。
その名の通り、千畳敷のように
広々とした曲輪になっています。
石垣は堀尾氏時代のものかな?
千畳平からの眺め。
城の外郭である飯梨川、
手前は歴史資料館。
尼子神社
千畳平の一角に
尼子神社があります。
案内によれば、
「主祭神は、
尼子三代城主、
尼子経久、晴久、義久。
山中鹿介幸盛外諸勇士。」
このように書かれています。
参拝。
賽銭箱と並び、
「願い箱」なるものが置いてあり
手前には刀剣のようなものも。
何を意味するのでしょうか・・・。
山中鹿介幸盛像
月山富田城散策において、
外せないのが山中鹿介幸盛像でしょう。
案内。
「(前略)
尼子氏滅亡後は尼子勝久を奉じての
尼子再興戦で中心的な働きを行い、
一時は富田城を包囲した。
しかし、布部・山佐の戦いにおいて
毛利軍に敗北した後は徐々に劣勢となり
元亀二年(1571)頃に
出雲国から撤退した。(中略)
織田信長の配下である
羽柴秀吉の軍勢に加わり、
播磨国(兵庫県)の
上月城守備を命じられていたが、
毛利軍の猛攻によって落城。
主君勝久らは自害し、鹿介も捕らえられた。
鹿介は備中松山城にいる
毛利輝元の下へ護送されたが、
その途上、松山城に程近い
阿井の渡しにおいて暗殺された。」
このように書かれています。
ちなみに
山中鹿介の胴塚は阿井の渡しに、
首塚は鞆の浦にありますが、
僕は、備中松山城に行った時も
鞆の浦でも、
鹿介に興味が無かったせいで、
近くまで行ったのに見落としています。
ここで興味が湧いてきたので、
また行きたいかも?(笑)
銅像。
「願わくば、我に七難八苦を与えたまへ」
そう言って、尼子氏再興を
三日月に向かって祈った姿でしょうか。
凡庸な主君を最後の最後まで見限らず、
臣下としての志を貫いた
山中鹿介幸盛の生き様に、
改めて感服します。
花の壇
次は花の壇へ。
案内板。
戦国とは関係ないけど
慰霊塔にお参り。
花の壇。
復元建物。
案内によると
「(前略)
花の壇の南側は武将の生活の場として、
北側は戦の時に
兵士たちが待機する場として
利用していたと考えられます。
また2棟の建物は発掘された柱穴をもとに
復元したものです。(後略)」
このように書かれています。
侍所の内部。
主屋。
主屋の内部。
山中御殿
僕の早とちりで、
山中御殿は「やまなか」御殿で、
山中鹿介幸盛の住んでいた
立派な御殿かと思ってましたが、
実は、山中は「さんちゅう」と読み、
山の中にある城主の御殿という
意味でした。
いや~紛らわしいなぁ~(笑)
ということで、
鹿介さんの住居跡の方は
見逃しています(汗)
花の壇から山中御殿、
山頂の本丸方面を臨む。
いい感じの石垣があるのですが、
実はここも近くまで行くのを
つい忘れてしまいました。
「月山の大もみじ救出作戦」
倒れかかった木札にそう書かれています。
この木が倒れそうだったのでしょうか?
昔のままなのか、
復元なんのかはわかりませんが、
ここで見られる多くは、
野面積みの石垣です。
山中御殿の曲輪。
案内。
動画で全景を撮影。
雑用井戸。
櫓跡と菅谷口。
菅谷口の城外から改めて中へ。
枡形になっています。
山中御殿へ。
富田城跡の案内。
尼子氏以来歴代の城主と
その出来事が書かれています。
ここから本丸への登城路へ。
登城路から山中御殿を俯瞰。
親子(しんし)観音
少し登ると、見えて来るのが石祠。
何を祀っているのか
案内を読んでみます。
要約すると
「親子観音は来待石製の宝篋印塔で、
同じく来待石製の石廟に納められている。
石廟の壁面全体には陽刻により
四十九本の塔婆が表現され
宝篋印塔部の基礎部側面に「慶長十三年」
「十二月五日」と彫られており
調査により、
堀尾家の跡目騒動と関連した
堀尾勘解由のものと見られる」
このように書かれています。
参拝。
屋根に盃状穴的なものがありますが、
気のせいかな(笑)
石廟に陽刻された塔婆。
本日の感動
花の壇の復元建物で見つけたのが、
こちらです。
「月山富田城 助太刀傘」
急な雨の時はこれをお使いください。
返却は麓の資料館へお願いしますと
書かれています。
何とも優しいおもてなしに
妻も僕も心がほっこりでした!