岐阜城(岐阜市)後編

 

入れて良かった

岐阜城天守入口の前には、

こんな案内がありました・・・。

江戸時代の櫓時計が、

看板の設置場所になっています。

その内容は、

「昨年(2019年)の耐震診断で、

岐阜城は震度6~7の

耐震性が不足している事が判明したが、

改修には相当期間を要する」

といった内容です。

へ~そうだったんだ~・・・。

となれば、何かあれば、

閉鎖されるかも知れません・・・。

知らなかったとはいえ、

タイミング良く入場出来たことは、

大いにラッキーでした(笑)

天守内部へ

外観を見ただけで、

気分も高揚してくる岐阜城、

その中身はどんなものか、

かなり楽しみに入口へ向かいます。

振り返ってみると

また素敵な光景が。

そして、入ります。

ここから内部へ。

パネルでの紹介。

信長の岐阜城、

思った以上に豪華です。

信長の城の変遷。

清州城→小牧山城

→岐阜城→安土城と

ホップ・ステップ・ジャンプの

三段跳びで規模も内容も

飛躍しているのが、

天下人への道を物語っています。

美濃(岐阜)後略の

足がかりとして建てた

小牧山城について。

岐阜城のジオラマ。

麓の館も豪華絢爛で、

後の安土城へのDNAが見て取れます。

岐阜城について。

鉄砲を片手に胸を張る

黄金の信長像。

鉄砲を持った武将像には、

可児市の明智城に建てられた、

明智光秀の像がありますが、

やはり長篠の戦いで名を馳せた

信長にもふさわしいものですね!

木造織田信長坐像(複製)

「この木像は、本能寺の変で斃れた

信長公の菩提を弔う位牌所として、

大徳寺山内に建立された総見院の本堂に

安置された肖像彫刻の複製で、

束帯に威儀を正した等身大の像です。」

「(実物には)天正十一年五月吉日、

七条大仏師宮内卿法印康清によって

制作されたことが記されています。」

「信長公一周忌の法要は、

天正十一年6月2日に大徳寺で

行われており、この木像は、

信長公一周忌のために

制作されたものとみられています」

このような案内があります。

大徳寺での一周忌法要の喪主は

羽柴(豊臣)秀吉でしたから、

秀吉の命令で製作されたのかも

知れません(推測です)。

平成20年に製作された

「織田信長公 銀箔押南蛮具足」。

京都南蛮礼拝堂の織田信長像。

天守最上階

山頂に建てられた

岐阜城からの眺めを期待しつつ、

天守最上階へ。

最上階内部。

長良川下流の素晴らしい絶景。

長良川上流の景色。

岐阜市内を臨む。

思った以上に素晴らしい眺めを

堪能出来た僕たちは大満足。

岐阜城資料館へ

天守のすぐ下には、

小さな資料館があります。

途中にあるのは、水手道下り口。

関ケ原の前哨戦で、

池田輝政はこのルートを通り、

攻め込んだという伝承があるそうです。

ここが、そのルート。

険しすぎて、見ただけで疲れそう(汗)

すぐ横に鎮座する御嶽神社に参拝。

妻が見つけたお洒落な龍の彫刻。

ちっちゃいからと

侮ってはいけませんね(笑)

振り返って再度天守を拝む(笑)

資料館に到着。

迎えてくれたのは、

高橋英樹似の織田信長。

信長といえば、高橋英樹(笑)

世代的な問題なのか、

緒形直人の方は、

あまり記憶にありません(汗)

その緒形直人が演じた信長の

オープンロケセットが

凄かったという案内。

今なら見に行ったでしょう・・・。

そして、

僕たちがここで一番楽しんだのは、

こんなイベントです。

妻が討ち死に!

死ぬ間際の一言は、

「ギッフッ ギッフッ」(笑)

さらに面白いのが・・・

槍のサーフィンで、「ギフューン」(笑)

こんなおもてなし、大好きです!

下城へ

資料館で楽しんだ後は、

遂に下城です。

石垣。

石垣・井戸跡。

石垣越しの天守もなかなか乙なもの。

二の丸橋。

縁結神社にも参拝。

岐阜城とのご縁をいただき、

ありがとう!

ロープウェイのりばへ。

これで天守の散策は完了です。

 

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