源頼家の墓(静岡県伊豆市)
「頼」つながり
北条時政が滅ぼしたのは源頼家、
徳川家康が滅ぼしたのは豊臣秀頼。
覇者交代の大きな流れの中、
いづれも若輩の「頼」さんが関わっています。
偶然でしょうが、
吾妻鏡が愛読書の一つだった家康さん、
きっと北条氏の政権奪取の手法を
熟知していたはずですから、
必然であったとも言えそうですね。
源頼家の墓
源頼家のお墓は、
頼家の菩提を弔うために
母、北条政子が建てた
指月殿の裏手にあります。
指月殿参拝を終えお墓へ。
お墓遠景。
源頼家の墓。
案内を書き出すと以下になります。
「正治元年(1199)に
父頼朝の後を継いで
18歳で鎌倉幕府の
二代将軍となった頼家は、
父の没後に専横になった北条氏を押さえて
幕府の基礎作りに懸命であったが、
大きく揺れ動く時流と、
醜い駆け引きに終始する政争に破れ、
在位わずか6年でこの修善寺に流され、
元久元年(1204)
祖父北条時政の手で
入浴中に暗殺された(享年23歳)。
「修善寺物語」はこうした
政治的背景の上に配所の若き将軍頼家と、
面作り師夜叉王を中心に、
それにまつわるロマンスを綴ったものである。
この碑は、元禄16年(1704)
頼家の500周忌にあたって、
時の修善寺住職
筏山智船和尚が建てた供養塔であり、
墓はその裏側にある2基の
小さな五輪石塔である。」
頼家さんの最後には、
諸説あるようですが、
入浴中に暗殺されたのは、
祖父である源義朝と同じです。
ちなみに
最初に江戸城を造った太田道灌も
風呂場で斬り殺されていますので、
道灌さんを含め
「日本三大風呂場往生」とでも
命名できそうですね。
そして、供養塔が建てられた
「元禄16年」。
この年の2月には、
仇討ちを成功させた
赤穂浪士たちが切腹しています。
何かと歴史を想起させてくれる
素敵な案内です(笑)
石段でお墓へ。
参拝。
供養塔。
そして、裏側へ・・・
案内に書かれていた
頼家さんの五輪石塔に参拝。
十三士の墓
頼家さんのお墓のお隣の
「源氏公園」には、
その一角に頼家さんと
運命を共にした家臣の墓があります。
公園内へ。
お墓。
源頼家 家臣 十三士の墓。
案内を書き出すと以下になります。
「北条氏との確執で、
病気を理由に修善寺に配流された頼家は、
元久元年(1204年)7月18日、
入浴中に暗殺された。
吾妻鏡(鎌倉時代史書)によると、
この6日後、頼家の家臣らは
謀反を企てたが、挙兵以前に発覚して、
相州金窪太郎行親らに
殺されたことが記されている。
この墓はその頼家の家臣
13名の墓と伝えられている。
頼家と運命を共にした
これら家臣の名前は判っていないが、
全国的にある十三塚の一例との説もある。
この墓は元々ここより東へ
200m程の麓にあったが、
台風被害により
平成17年(2005年)
7月17日にこの地に移築された。」
頼家さん=鎌倉殿ですから、
この方たちも間違いなく、
「鎌倉殿の13人」です。
参拝。
神社など
頼家さんのお墓、
向かって右側には、
3つほどの神社や石碑などがあります。
頼家さんが寂しくないように、
ここに建てられたのでしょうか・・・
南想塔。
第二次大戦で亡くなった
地元の方々の供養塔です。
江戸期最後の戯作者、
仮名垣魯文の句碑。
「桂谷眺望
谷川や月もはこびも九折」
稲荷神社(多分)
この後、時間の余裕ができたので、
修善寺参拝をすることに。