大蔵幕府跡(鎌倉市)

 

小学生の資料で満喫

都市開発が早かったのか、

源頼朝が造った大蔵幕府跡は、

全てが土の下にあるようで、

遺構は全く見られませんが、

「ここに政庁があったんだ」という

想像を掻き立ててくれ、

大いに満喫できたのは、

跡地の上に建つ

小学校の児童達が作った

大蔵幕府についての資料のお陰です。

児童たちの

心のこもった作品に出会え、

感謝しかありません!

大蔵幕府跡へ

鶴岡八幡宮の東門を出て、

少し歩くと幾つもの案内があります。

「頼朝の墓」、「荏柄天神社」への道。

少し歩き、先の交差点の角に建つのが、

大正時代に建てられた

「大蔵幕府」の石碑です。

ここを真っ直ぐ行くと、頼朝の墓ですが、

まずは右の石碑を確認。

大正時代のものなので、

文章が難しく、

読むのが、めんどくさくなりますが、

ここには強~い味方がいました!

小学生からの贈り物

味方とは、

冒頭に書いた小学生の作品です。

小学生の現代文訳を書き出すと

以下になります。

「今から八百二十年前に

源頼朝がこの場所に屋敷を建てました。

しかし権力を得てからは

政治を屋敷内で行いました。

いわゆるこれが大蔵幕府であります。

それ以降、頼家・実朝と続き、

千二百二十五年に

頼朝の妻である政子が亡くなりました。

幕府が宇津宮に移るまで、

この場所が幕府の中心となったのは

四十六年間でした。」

これは、わかり易い!

しかも石碑が建てられた時点での文面、

「七百三十七年前」の部分を

ちゃんと現在に書き直している

柔軟さにも拍手です!

そして、

児童たちの作品は、

他にもあります。

「源頼朝が作った大蔵幕府」

この中の「大蔵幕府とは?」

から抜粋してみます。

「治承四年(1180)

平氏との富士川の合戦の後、

鎌倉に戻った頼朝が鶴岡八幡宮の

東側にある大蔵郷に建てた館が

大蔵御所です。

これは大庭景義が頼朝の指示で

普請奉行として

治承四年(1180)10月に着手して

12月12日に完成しました。」

鶴岡八幡宮の平家池・源氏池

大庭景義が作っていますが、

こんな重要な場所もこの人だったとは、

頼朝さんからの信頼は、

絶大だったようですね。

建物の配置図。

小学生の気持ちが伝わる

分かりやすく、

温かみのある作品です。

そして、

大蔵幕府関連以外にも

小学生からの贈り物は続きます。

「かまくらの名所」

「鎌倉の豆知識」

ここで、驚きの記述を発見!

鶴岡八幡宮の参道である

檀葛だんかづらについて、

「檀葛の両脇の石は

高さが違っており、

八幡宮に向かって左側(西)が

少し高くなっています。

敵は西から攻めてくるので、

このような設計になったのではないか

といわれています。」

へ~知らなかった~

細やかな配慮があったんだ~!

小学生、改めてありがとう!

「鎌倉クイズ」

壱はハトだと分かるけど、

弐と参は全くわかりません(汗)

小学生の作った

史跡に関する俳句も

張り出されています。

僕が一番気に入った作品は、

校長先生賞をとった、

「侍の 魂眠る 古い街」です。

魂とは、「精神」という意味でもあり

戦いで散った武士の魂とも受け取れます。

僕たちは、

その武士の魂を引き継いだ小学生たちに、

魂を揺さぶられるほどの

素晴らしい経験を

させていただきました。

何も見えない遺構には、

大いなる魂が宿っていたんですね!

 

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