2024/06/08

佐藤継信の墓(高松市屋島東町)

 

意思疎通は大事

「佐藤継信の墓にお参りしたい」

そんな妻の要望で始まった旅ですが、

「高松藩主の松平頼重が建立した墓」が、

佐藤継信の墓と言うのが僕の認識で、

道を迷いつつも

ようやく参拝できたのです・・が、

しかし・・・

妻の思い描いていたお墓は、

「義経の愛馬、太夫黒も一緒に眠る

佐藤継信の墓」だと判明(汗)

簡単に言えば、「佐藤継信の墓」は、

2箇所にあるのです・・・

慌てて(笑)道を調べ、

妻の考えていたお墓にも

無事参拝できたのですが、

やはり

意思疎通ってホント大事ですね!

屋島へ

屋島の戦いへ向けた

源義経の痕跡を辿るため

この日早朝、高松市のホテルを出発し、

徳島県小松島市へと向かい、

旗山勢合など義経ゆかりの地を散策後、

徳島市へ移動。

徳島縣護國神社、徳島城を巡り、

再度、高松市に戻り、

屋島へと向かいました。

こちらは義経が大阪から出発し

屋島まで進軍したルートで、

青点線部分が僕たちが辿った、

超大まかな(笑)道になります。

屋島の東側に到着。

屋島を東岸から攻めた義経御一行様も

こんな景色を見たのかな〜!!

そして、

ここでテンション上がる名前を発見。

「源平台」と刻まれた団地名。

普通の戸建て団地の名前ですが、

屋島とのコラボ写真も撮れるし

団地名を考えた人、

めっちゃセンスありますよ!

佐藤継信の墓

屋島の東側を少し行くと、

分岐点があります。

Yの字の真ん中に案内を発見。

ちゃんとありますね、

佐藤継信の墓!

しかし、場所の特定が難しく、

ここから行ったり来たりで、

迷うこと約10分(汗)、

なんとかお墓に到着です。

墓域の前の石仏群。

お〜着いたぞ!!

「佐藤継信の墓」。

案内を書き出すと

以下になります。

「佐藤継信は、寿永4年(1185)2月の

源平屋島合戦のとき、

平家の武将能登守教経の強弓により

大将義経の一命危ういとみて、

義経の矢面に立ち、

身代わりとなって討死しました。

この継信の忠死を広く人に知らせるために

寛永20年(1643)初代高松藩主

松平頼重公が、合戦当時に

義経が丁重に葬ったあとを受けて

屋島寺へ続くこの遍路道の傍に

建立したものです。

また、墓は牟礼町王墓に残っています。」

なるほど!

牟礼町王墓の方が妻の言う

「佐藤継信の墓」なんですね!

お墓は切り込み接ぎの石積みで、

400年前の建立とは思えないほど

しっかりと維持されています。

参拝。

源氏勝利の象徴、屋島とともに・・。

墓石背後の五輪塔へ。

五輪塔と屋島。

この後は、

「妻の目指す佐藤継信の墓」へ。

 

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