白山神社(福岡県柳川市)
心は通じる・・・
白山神社には
鳥居や狛犬など
幾つもの古いものがありますが、
特筆すべきは、
400年近く前に建てられた鳥居が、
何度も大きな地震にあったにも関わらず、
全く壊れていない事です。
石工さんの技術力はもとより、
その前に寄進した人の
神様への畏敬と、
人々の安寧を願う強い心が
鳥居を今日まで
生かさせたのかも知れません。
参道
白山神社横の広~い駐車場に
気付いたのは、参拝の途中(汗)
僕達は社頭の「空きスペース」に
停めての参拝でした。
まずは猿田彦大神に
ここに導いてくださった事を感謝。
一の鳥居。
鳥居の横には川が流れ、
御手洗か船着き場の
石段が整備されています。
まずは、鳥居の左側に案内へ。
「白山宮華表(鳥居)」
案内を書き出すと、
「白山宮華表は、承応二年(1653)に、
米多比家が知行地である吉開村の産土神・
菊理姫神・伊耶那美命を祀る白山宮へ、
神々の加護を願って、
神域に入る関門である
華表を寄進したものです。
米多比家は、武蔵国(埼玉県)
熊谷の熊谷次郎直実の末裔で、
筑前国(福岡県)糟屋郡
米多比を領して以来、
米多比と名乗るようになりました。
鎮久の時には戸次道雪や立花宗茂に仕え、
大組頭までになり、鎮俊の時には、
大組兼家老職をつとめました。
華表は、古い形でシンプルですが、
バランスのとれた
美しい明神鳥居の様式です。」
このようになります。
まさかここで、
僕達の住んでいる町で活躍していた
米多比鎮久の名前に遭遇するとは、
驚きましたが、
考えてみればここ柳川は、
主君である立花宗茂の領地、
不思議な事ではありません。
関ケ原の戦いで西軍につき
負けてしまった宗茂は改易され、
家臣は散り散りになり、
米多比鎮久は、熊本の
加藤清正に仕えています。
その後、
加藤家のゴタゴタの証人として
江戸に赴いた際、
徳川家光のはからいで、
陸奥国にいた旧主君、宗茂の元へ。
その後、大名に復活した宗茂とともに
柳川に帰って来たという、
ドラマチックな生涯を送った鎮久さんです。
この鳥居は、米多比鎮久が
亡くなった後の寄進ですが、
ここで、鎮久さんの子供か孫が、
こんな鳥居を残しているなんて、
これもまたドラマチックなお話ですね。
燈籠と二の鳥居。
二の鳥居。
こちらが、案内に出ている
承応二年(1653)、
米多比氏寄進の鳥居です。
笠木・島木、貫、柱が、
幾つもの石で組み合わされた
「肥前鳥居」造りで、
全てのパーツが
オリジナルのまま残っているようです。
冒頭に書いたように、
寄進者の「心」を
大いに感じます!
斜めからアップで撮影。
黒田長政が寄進した
日光東照宮の石鳥居も
石材を分割する
肥前鳥居の構造で、
400年以上も
多くの地震に耐えていますが、
この造りが、耐震構造として
プラスに働いているのかも知れません。
水天宮神社。
昭和52年、
ここに移設されたようです。
神門。
この中で、
素晴らしい出会いが・・・
古いタイプの
肥前狛犬と小さな狛犬です!
阿形。
肥前狛犬のアップ。
この素朴さがたまりませんね!
お顔もイケメン(笑)
阿行のアップ。
牙が可愛い~!
随身様も石造です。
阿形の随身様。
御社殿
神門でテンション上がった後、
ようやく参拝へ。
神門をくぐり拝殿へ。
その前に・・・
忠魂碑に参拝。
高い所に狛犬が・・・
よく見ると、
「日露戦戦役記念碑」です。
拝殿。
手水舎も古くていい感じ。
水道水が出るので、
お手水は完璧です。
拝殿前の燈籠は、
寛政二年(1790)寄進。
参拝。
ここで立花家の家紋、
「祇園守」を発見。
拝殿(右)も本殿も覆屋なので、
本物は見られませんが、
神様が大切にされている事は、
よ~く理解できます。
境内社など
次に境内社へ。
参拝。
(御祭神は不明)
境内社裏の藤棚。
拝殿前のツーショットで、
参拝は完了。