原城(南島原市)前編

 

歴史は俯瞰するもの

島原の乱(島原・天草一揆)において、

原城に立て籠もった人たちの

一定数は、「仕方なく巻き込まれた」

というのが現実だったようです。

お上に対し、

特段に強烈な反抗意識が

あったわけではないにも関わらず、

結果として、参加者は、

このような人たちも含めて

皆殺しにされました。

間違いなく悲劇ですが、

明治維新での戊辰戦争や、

西南戦争での

殺し合いなんかも同じでしょう。

ただ、こんな事があって、国は変化し、

成長し、安定するという繰り返しが

人間社会なのですから

起きたことを否定する事もありません。

もしも、江戸初期、

幕府がキリスト教を認めていたら、

果たして今の日本は

あったのでしょうか?

ひょっとすると

僕たちは日本語ではなく、

ヨーロッパの植民地にされた

南米の国々のように、

ポルトガル語やスペイン語を

話していたかも知れません。

歴史を小さな視点で見ると、

「こんな悲劇は繰り返してはいけない」

そんな思いがこみ上げますが、

やはり歴史は俯瞰して見るもの。

「悲劇の繰り返しが人類の歴史」

くらいに考え、

人類なんてその程度の存在と知り、

ただただ、自然や地球に

「生かされている」事を

改めて強く認識できれば、

歴史を作った人々への鎮魂にも

なるのではと思います。

原城へ

有馬キリシタン遺産記念館

いただいたのは、

「原城跡」の分厚いパンフレット。

15ページに及ぶもので、

2006年の初版から

2019年の第五版まで、

常に更新されている

素晴らしいものです。

その中にあるのが、

原城の攻防をわかりやすく

示した諸軍の配置図です。

十字架マークが一揆軍、

黒枠に白文字が幕府側で、

松平信綱の本陣近くには、

戦国時代から生き残っている

柳川藩主、

立花宗茂の名前があります。

この時、宗茂は70歳過ぎ、

今ならば100歳位?(笑)

それでも最前線に出て、

陣頭指揮を取る

気力と体力には敬服します。

幕府側最前線あたりから攻城開始。

多くは晴れる僕たちの旅ですが、

どういう巡り合わせか長崎だけは、

何度行っても雨が降ります・・・

やはりあの有名な歌が、

頭をよぎるからかな?(笑)

案内が沢山(笑)

今では世界文化遺産ですが、

昭和13年5月30日に

国指定史跡となっています。

仕寄場

少し行くと仕寄場があります。

案内によると

「仕寄とは、城などに

攻め寄せる際に設けられる構築物であり、

仕寄が築かれる場所を

仕寄場と呼びます。

仕寄場には、

城中からの攻撃を防ぐための竹束や柵、

また城内の様子をうかがうための

井楼などが設けられました。

原城二ノ丸の出丸および

三ノ丸に接する前方の低地一帯には、

立花、松倉、有馬、鍋島などの

軍勢が仕寄場を構えました。」

このように書かれています。

写真を拡大。

仕寄場の風景がよくわかります。

ここに竹束や柵があったのか・・・

仕寄場から見た原城。

かなり近いですね!

板倉重昌碑

仕寄場から少しあるくと

石垣で囲まれた一角が見えてきます。

これが「板倉重昌碑」です。

石段で中へ。

案内文を超訳すると、

「第一次上使として派遣され、

幕府側の総大将を努めた

板倉重昌は、三度目の総攻撃で戦死、

その後、延宝九年(1681)に

孫の重道により石碑が制作され、

寛政九年(1797)

子孫の板倉勝長らによって、

戦死場所のここに碑が建てられた」

このようになります。

板倉さん、次の上使である、

お偉いさんの松平信綱が来る前に

決着をつけないとまずいという、

焦る気持ちがあったのでしょう。

いや、死んで責任を取ろうとしたのか・・・。

三ノ丸

次に三ノ丸へ。

案内。

「この一帯は原城の中で

最も北側に位置する三ノ丸跡です。

自然地形を活かした

中世的な土造りの構造の曲輪であり、

範囲は約6万平方メートルと広大です」

このように書かれています。

確かに広い(笑)

大手口

次に大手口へ。

案内。

大手口(多分・・笑)

石垣も残っているのかな?

二ノ丸

次に二ノ丸へ。

城跡っぽい景色。

案内。

「この一帯は原城の

ほぼ中央に位置する二ノ丸跡です。

自然地形を活かした

中性的な土造りの構造の曲輪であり、

面積は8万平方メートル余りと

原城の中で最も広大な曲輪です。

二ノ丸の北西部分は出丸となっており、

島原・天草一揆の際には

出丸の最先端付近が、

一揆勢の夜襲や幕府軍の総攻撃の

起点となるなど、

戦いの最前線となりました。」

このように書かれています。

二ノ丸の石垣。

石が小さく、中世のお城という感じです。

 

 

ここにも石垣跡があります。

そして、こちらが圧巻。

なんか凄みを感じる谷ですが、

その谷底には一話の白鷺が・・・

なんか僕たちを呼んでくれたのかな?

ここは動画も撮影。

谷底へ行く途中撮影した出丸。

谷底から撮影。

これは、攻撃する側として

かなり手強かったでしょう。

上からは鉄砲の嵐が(笑)

二ノ丸の曲輪。

二ノ丸から幕府軍陣地を臨む。

二ノ丸にあった石碑。

南無妙法蓮華経と

書かれているので、

幕府軍側の戦死者を

弔っているのでしょうか?

合掌(後編へ続く)

 

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