有馬キリシタン遺産記念館(南島原市)

 

居心地の良い場所

南島原市での最大の目的は、

原城への訪問でしたが、

その前に事前知識注入のため寄ったのが、

ここ、有馬キリシタン遺産記念館です。

ネットで、訪問者達のコメントを読むと

なかなか評判の良い施設です。

そして、実際に行ってみると、

全てに於いて居心地が良く、

評判以上に気に入り

ついつい予定時間を

大幅に過ぎてしまいました(笑)

館内へ

早起きして、熊本から諫早に移動し、

そこからまた車で約1時間30分、

南島原市は思った以上に遠いので、

途中、コンビニで昼食を買い、

腹ごしらえしてからの訪問です。

エントランス。

チケットを買うと、

パンフレットはもちろんの事、

原城跡のクリアファイルや

島原そうめんを揚げたお菓子など、

沢山のプレゼントをいただけるのです!

思わぬ歓迎ぶりに、

テンションはいきなりMAXに。

物に釣られると?

MAXになるのが僕の癖ですが(笑)

ロビーに配置された、

地元出身の彫刻家、

北村西望氏作のレリーフ。

レリーフの案内。

カッコ内の

「特に大分県のご配慮をいただき

復刻することが出来ました」

このフレーズが気になり調べてみると

大分市の

「大分県キリシタン殉教記念公園」に

このレリーフのオリジナルがあるようです。

まずは正面入って左側の展示室1へ。

展示室1

こちらは島原の乱(島原・天草一揆)

以前までの展示が主です。

館内はイエズス会の著作以外は、

撮影OKというのも有り難い限りです。

やはりその瞬間の記憶だけでは

思い出はなくなるものですからね(笑)

いきなり目に入るのが、

少年使節が持ち帰った

活版印刷機で、

日本で最初に使われたのが、

南島原市だったそうです。

この後、10分ほどの映像を見て、

展示室1の散策へ。

「キリスト教の伝来から繁栄」と

題された年表。

注目は、

「1563

有馬義貞 アルメイダに布教を許可」

豊後(大分)の大友宗麟の元で、

日本で最初の西洋医学による病院を

大友氏館近くに作ったアルメイダ、

有馬さんとも昵懇だったんですね。

ここで気になるのは、

「1584

晴信、沖田畷の戦いで勝利

有馬領安定」です。

沖田畷(なわて)の戦いは、

有馬氏の同盟軍だった、

島津氏お得意の戦法「釣り野伏せ」で、

敵である佐賀の龍造寺隆信軍は、

大打撃を受け

隆信自身も打ち取られ

「有馬領安定」に至った訳です。

その後、

佐賀藩が龍造寺氏の支配から

明治維新まで続く、鍋島氏の時代へと

変わっていく潮目になった戦いですが、

同じ年に中央で起きた戦いといえば、

「小牧長久手の戦い」です。

局地戦で秀吉が家康に惨敗し、

名目上は秀吉有利な講和をしたものの

豊臣家の滅亡と、

徳川幕府成立の

大きな伏線となったもので、

どちらにも共通するのは、

圧倒的な兵力を持ちながらも

「奢り」や「相手を見下す心」が

裏目に出た戦いという事でしょう。

人間、どんな地位や権力を持っても

謙虚さや用意周到さは必須ですね。

ここでの注目はやはり

「1599~1604

晴信、原城築城」です。

原城が無かったら、

島原の乱はどんな形になったのでしょう。

幕府軍はもっと楽に

勝てたかも知れません。

日本初のセミナリヨを作った

ヴァリニャーノについて。

セミナリヨの案内。

意外ですが、カリキュラムには、

日本史も入っています。

ちなみにセミナリヨは中等教育機関で、

その上の高等教育機関を

コレジオといいます。

(ここで知った事ですが・・)

キリシタン大名有馬晴信について。

有馬晴信が居城とした

日野江城の案内。

安土城と同じような

「大手道」があったとはビックリで、

妻はこれを見た瞬間、

「日野江城に行きたい!」

と言っていました。

ヨーロッパに伝えられた日野江城。

「有馬晴信像(複製)

福井県丸岡町台雲寺所蔵」

このように紹介されています。

有馬氏は、島原から宮崎の延岡、

そして、越後へと転封となり、

一旦は城無し大名にまで

格下げされながらも

最終的には越前(福井県)の

丸岡城を与えられ

丸岡藩5万石の藩主として

明治維新まで続いています。

その藩主の移動にともなって、

島原にあった有馬家の菩提寺である

台雲寺も一緒に、延岡~丸岡と

引っ越ししているという訳で、

大名の転封って、寺社を伴うことも

多々あるのが、凄いと思います。

天正遣欧少年使節について。

天正遣欧少年使節が

持ち帰ったもの。

展示室2

展示室1が前菜ならば、

ここは、メインディシュ(笑)

あくまでも

僕の趣味としての位置づけですので、

優劣は無い・・はず(汗)

「キリシタン弾圧と島原・天草一揆」。

年表。

やはり松倉重政、勝家親子の

圧政が原城立てこもりの

大きな要因となっています。

一揆の始まり。

10月26日に一揆軍は、

島原城を攻撃しているのに、

幕府が、一揆を知ったのが、

11月9日というのは、

江戸時代とはいえ、遅い気がします。

平和な時代に入って30年も経てば、

気の緩みはあったはずでしょうが(笑)

支配地域を超えて

藩兵を動かしてはならないという

幕命で一揆に気づいていても

周辺の藩は動かなかったようですが、

他所の喧嘩に介入して、

痛手を負いたくないのも心理でしょう。

最初の上使、板倉重昌さん、

度重なる攻撃の失敗、

そして、幕府からは松平信綱が

やって来ると聞いて、

1月1日を自分の命日としようという

覚悟だったのかも知れません・・・。

「知恵伊豆」と言われるほどの切れ者、

松平信綱の前には

一揆軍も壊滅しかなかったのでしょう。

ここでの注目は、一月二十八日

「前有馬領主 有馬直純

日向(延岡)より着陣」ですね。

数年前に宮崎県高千穂町の

下野八幡大神社で、

「有馬杉」という御神木を見たのを

思い出したからです。

有馬氏は、

延岡から島原へ向かう途中、

高千穂に鎮座する

下野八幡大神社に戦勝祈願し、

勝利後にまた感謝の参拝をしています。

その時、植えたのが「有馬杉」で、

その伝承を裏付けるように、

樹齢400年近い大きな杉の木です。

ミニジオラマ。

こんなものが幾つもあり、

リアリティを感じられて

楽しい展示ですね。

実物大ジオラマ。

原城の発掘現場の再現で、

人骨なども、そのまま作られていて、

凄惨な現場が思い浮かびます。

今日の一冊

プレゼントの一つとしていただいた

小冊子が印象に残っています。

小学校6年生の作品ですよ!

そのほんの一部を抜粋すると・・・

「少大名だったため大名たちが

言う事を聞いてくれなかった」

板倉重昌の厳しい立場を

端的に表現してくれています。

意外と知らない一面、

「年貢一年間免除」

「21年後には年貢の半減」

教えられますね~~小学生に(笑)

素晴らしい冊子をありがとう!

 

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