原城(南島原市)後編

 

VR鋭意増殖中

史跡めぐりで最近よく出くわすのが、

VRによる映像体験です。

一定の場所ごとにポイントがあり、

そこでタブレットやスマホで、

往時の姿を映像で見るというもので、

これは本当に画期的だと思います。

過去には、

名護屋城大友氏館跡

宇和島城三重津海軍所跡などで、

体験し、その威力をまざまざと

見せつけられてきましたが、

今回の原城においても

小雨だったにも関わらず

VRのお陰で、青空の下、

往時の姿を見られ、

大満足の訪問となりました。

そのうち、何も持たずに

その場に立っただけで、

昔の姿が浮かび上がる技術が

出現するともっと楽なのですが(笑)

本丸へ

二ノ丸を堪能した後は、

いよいよ本丸へ。

最近建てられた

世界遺産のモニュメントと

原城本丸の全景。

本丸向かって左側の海岸線。

まずは本丸正門前に建てられた

ホネカミ地蔵に参拝。

案内によると

「島原・天草一揆の集結

(1638)より

130年ほど後の明和3年

(1766)北有馬村

願心寺の住職注誉上人と

南有馬村の庄屋乙名らが、

原城跡に残されていた遺骨を

敵味方の区別なく拾い集め、

供養した地蔵塔です。」

このように書かれています。

130年後にこのような行いが

出来る事自体に敬意を表します・・・

案内。

有馬晴信が築城し、

島原・天草一揆(島原の乱)では

主戦場となったことが書かれています。

本丸の石垣。

ここで、VR登場。

本丸正門が青空に映えていますね!

案内所でタブレットの

無料貸出もありますが、

僕たちは、

アプリをダウンロードして

スマホで見ました。

画面の大きさから言うと

タブレットの方が迫力あったかも?(笑)

本丸正門へ。

ここは巨大な

桝形虎口となっています。

桝形虎口内部。

ここに侵入した敵は、

四方から鉄砲で、

蜂の巣にされてしまいます(汗)

土塀跡と雁木。

埋門跡。

城内側から見た埋門跡。

幕府によって、

徹底的に破壊されたのに

ここまでしっかり見られるとは、

有り難し!

本丸門跡。

本丸。

案内。

海側へ。

櫓台跡(天守跡)の案内。

ここでは、有馬晴信が居城とし、

天守があった頃と

一旦廃城になった後、

応急処置的に防備した

島原の乱当時の姿の

二つがVRで見比べられ

楽しみはさらに増します。

本丸から海側へ。

海がこんなに近いとは、

幕府側のオランダ船から

砲撃されるはずですね。

本丸の端にある

天草四郎墓碑。

左分利九之丞の墓。

鳥取藩池田家の家臣で、

幕府側の総攻撃の際、

このあたりで討ち死にし、

島原の乱後の墓が

ここに残っています。

福徳円満大満潮大神。

「島原半島八十八ヶ所平和塔一番」

このように書かれていますので、

平和塔はここも含め、

八十八ヶ所あるのでしょう。

天草四郎像

原城の象徴的なものといえば、

やはり天草四郎像です。

全体像。

アップ。

祈る姿が凛々しい美少年。

さらにアップ。

天草四郎をバックにツーショット完了。

石垣など

本丸散策を終えて、

石垣を見ながら帰路へ。

池尻口門跡。

ここからの写真は

水滴付きにて一部ボケています(汗)

池尻口門から見た海岸線。

本丸石垣。

宗栄寺地蔵尊

原城を訪問した時、

城跡に向かって見せたのが、

このお地蔵様の写真です。

僕たちがこの冬参拝した、

福岡市東区名島にある

宗栄寺のお地蔵様で、

「島原の乱の折り、

黒田藩も鎮圧に参加、

黒田配下の一万石の武将、

岡田半左衛門利良とその子、

佐右衛門正興は鉄砲で撃たれ戦死。

利良の妻は二人を弔うため尼となり

宗栄と称し、

博多妙楽寺を再興し

父子を埋葬するとともに

遺品を名島の古塁の麓に納めて精舎を建て、

利良の家士手島半兵衛の次男で

比叡山で修行していた

心性坊俊道を招き開基とした。

これが宗栄寺である」

このような案内があり、

夫と息子の菩提を弔ったのが、

この地蔵尊というわけです。

背中には戦死した場所や

日付なども刻まれています。

原城で、

「あなたの妻、母は、

二人の為に、お寺を建立し、

このようなものまで造り

400年近く経った今でも

あなた方を弔っていますよ」

そんな気持ちで、

見せてあげたかったのです。

僕たちがこんな役目を果たすとは、

やはり何かのご縁なんでしょう・・・

今日の一枚

本丸の北側の海岸を見下ろす場所に

海に向かってひっそりと佇む

三体の小さな人形たち。

真ん中は天草四郎でしょうか?

雨で霞んでいますが、

写真右寄りに見えるのが、

島原・天草一揆の直前、

寛永十四年(1673年)

10月24日、

首謀者たちが蜂起を談合をした

「湯島」でしょう。

その湯島の向こうには、

天草四郎の生まれ故郷(とされている)

天草諸島の大矢野島があります

(見えてませんが)。

そんな位置関係を考えると、

ここに三体が置かれている意味が、

何となく分かる気がしますね。

 

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