2024/07/12

橋本左内銅像(左内公園)

 

芭蕉の気持ち

橋本左内の墓所がある左内公園は、

松尾芭蕉が「おくの細道」の道中に、

宿泊した場所でもあります。

これは、

全くの奇遇としか言いようが

ありません・・。

橋本左内は芭蕉よりも

150年ほど後の人物ですが、

もしも芭蕉が橋本左内の功績や

その死に至るまでを知ったなら

木曽義仲をはじめとし、

志半ばにして倒れた者に

優しく寄り添う芭蕉らしく、

きっと橋本左内を讃える俳句を

詠んだことでしょう・・・

そう言ったこともあり、

橋本左内のお墓がここにあって、

本当に良かったと感じています。

芭蕉宿泊地 洞哉とうさい宅跡

橋本左内のお墓の左隣に、

松尾芭蕉宿泊地はあります。

案内板など。

案内を抜粋すると以下になります。

「松尾芭蕉が、「おくの細道」の旅の途中、

福井の俳人、洞哉を訪れたのは、

元禄2年8月11日

(1689年:旧暦9月24日)

のことだといわれます。

芭蕉の死後、

福井の俳人達が芭蕉の百回忌の法会を営み、

その時の記録の中に

「洞哉という人は、

貧しい暮らしをしており、

芭蕉が訪れたときも枕がなく、

近くの寺院で、

ころあいの良い木片をもらってきて

芭蕉の枕とした。」という話があります。

このような人柄が、

芭蕉に気にいられたのか、

芭蕉は洞哉の家に2泊したのち

連れ立って敦賀へと向かいます。」

なんだか、芭蕉らしい

ほっこりさせられる逸話ですね!

「洞哉と左内町」

案内を要約すると

「洞哉は「等栽」「等哉」「可柳」の

俳号を持つことが知られているのみで、

人物像は全くわかっていません。

洞哉が芭蕉の枕にと木片をかりたお堂が、

左内町の顕本寺に建てられていたことが

明らかになりこの付近に

住んでいたことがわかりました。」

このようになります。

「おくの細道の旅」の行程図。

江戸からスタートし、大垣で完結。

「芭蕉と月の句」

奥の細道とは別に、

越前で詠んだ月の句を集めた

「芭蕉翁月一夜十五句」が

残されていると書かれています。

月の句の続き。

芭蕉が心を寄せた木曽義仲を想う句

燧山ひうちやま 義仲の寝覚の山か月悲し」

これが掲載されていますが、

この句を左内先生に当てはめると

足羽山あすわやま 左内の寝覚の山か月悲し」

こんな感じでしょうか?

芭蕉さん失礼しました!(汗)

橋本左内銅像

橋本左内銅像は、

公園端っこの

あまり目立たない場所にひっそりと

建てられています。

遠景。

木に同化しているような・・(笑)

近寄るとかなり大きく、立派です。

橋本左内の生涯。

立志して、日本の為に奔走、

そして安政の大獄で刑死・・

短いながらも極太の人生です。

りりしいお顔。

斜めから。

お顔アップ。

左内先生が仕えた

松平春嶽の居城、福井城

見つめているのかな・・・

最後にこれで〆。

この後は、ご近所にある

柴田勝家さんのお墓へと向かいます。

 

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