2024/07/11
橋本左内墓所(左内公園)
顕彰
福井の至宝、
橋本左内の名前は、
現在町名になっています。
「左内町」の町名版。
近くに橋本左内の生家があったから
この町名が付けられたのでしょうが、
これは偉人に対する
最高の顕彰方法かも知れませんね。
菩提所の隣
橋本左内お墓は、
菩提所である善慶寺のお隣です。
公園の滑り台上から撮影。
奥に見えるのが善慶寺の本堂で、
手前が左内公園のパンダ達です(笑)
エントランス。
「橋本左内先生墓所」の
標柱が建つ参道の起点。
「左内先生」という表現が、
福井市内ではよく見られますが、
これも橋本左内に対する
敬慕の現れでしょうね!
お出迎えはリスちゃん!
いや〜ひょうきんなお顔、
癒されますね〜
そして、
リスちゃんの反対側で
妻が見つけたのがこちらの木です。
ひねひね棒の桜の木。
反対側を見ると・・
空洞だらけで枯れまくっていますが、
桜の花もしっかり咲かせているという
妻が大好きなタイプです(笑)
次は桜のお出迎え(笑)
近くの滑り台の上から
公園と墓地を俯瞰。
こんな清々しい墓所は珍しいかも?
突き当たりの墓所へ。
墓所の拝殿周辺には
いくつかの石碑や案内があります。
「橋本左内の墓」
案内を書き出すと以下になります。
「大西郷を心服せしめた幕木福井番の
鬼才景岳橋本左内の墓である、
安政の大獄に座し、小塚原の露と消えるや
友人長谷部弘連等によって
一応同所回向院に理葬されたが、
間もなく文久三年当所に移葬された。
当所は都市計画実施まては
日蓮宗善慶寺の境内に属し、
同寺が、
橋本家の喜提寺であつた闘係から、
当左内墓に列んで、
初代長徳、父長綱、母梅尾の
墓などが建てられてある。」
冒頭に書かれた
「大西郷を心服せしめた」の部分を
ちょっと掘り下げると、
二人が初対面の時、
左内先生は21歳、西郷どんは28歳。
この青二才と左内を見くびっていた西郷どん、
これからの日本の将来のあり方を語る
左内先生の魅力に引き込まれてしまい、
西南戦争で最後を遂げる瞬間まで、
左内先生からの手紙を
大切に持っていたそうです。
橋本左内が十五歳の時に述べた「啓発録」。
一 稚心を去る
一 気を振う
一 志を立てる
一 学に勉める
一 交友を択ぶ
これ、ホント偉過ぎます・・・
福井県の中2年生は、この啓発録に習い、
自分の将来を考える
「立志式」というものを行っているそうで、
「左内先生」の遺したものは、
福井の人々の底力となっているようですね!
桜の花びら入りの手水鉢。
墓前手前の石碑。
石碑の案内には、橋本左内が、
福井藩の朋友長谷部甚平に送った
書だと書かれ、
その意味を超訳すると
「私(橋本左内)は生きていても
死んだ後も、永く人の世に
道を示すものとなりたい」
こんな感じです。
改めてここから参拝へ。
桜の木に守られた墓所。
参拝。
真ん中「景岳先生之墓」と刻まれたのが
橋本左内のお墓です。
日本の行末を思いつつ奔走し、
志半ばにして死ななければならなかった
橋本左内先生の無念さ・・・
計り知れませんね・・・
改めて合掌・・・