畠山重忠の墓(埼玉県深谷市)

 

生まれた場所がお墓

畠山重忠公が生まれたのは、

畠山館(はたけやまやかた)で、

現在は、僕たちが訪問した

「畠山重忠公史跡公園」となっています。

また、重忠公のお墓も同じく、

ここにあります。

生まれた場所で、永眠出来るとは、

ちょっとした贅沢かも知れませんね(笑)

畠山重忠の墓へ

駐車場前で、

畠山重忠公の銅像に感動した後は、

お墓へと向います。

お墓の北側からの道。

ここからは、慰霊碑などが

いくつも並んでいます。

畠山重忠公没後八百年慰霊碑。

畠山重忠公史蹟保存碑。

奥之細道探訪記念碑。

地元の方々が奥の細道を辿って、

俳句を作ったもののようですが、

ここには「畠山姓」の方が、

かなり多くいらっしゃいますので、

畠山重忠公と

関係ある人なのかも知れません。

埼玉県知事の歌碑。

題名は「重忠」。

正面に回ってここから参拝を開始。

幟があるとテンション上がります(笑)

「土塁について」

畠山館の周囲には、

簡素な土塁があった事が記されています。

かすかに残る土塁。

「しだれ桜の由来」

要約すると

「南北二本のしだれ桜は、

畠山重忠公没後

八百年祭記念事業の一環として

秩父郡荒川村より寄贈され、

手植えされたエドヒガン桜です。」

このようになります。

元々が秩父地方の人だし、

「秩父氏」と名乗っていた

畠山氏なので、

故郷からの贈り物という訳でしょう。

北側の桜。

南側の桜。

植えられてから20年ほどで、

ここまで大きく

立派に成長していますので、

あと10年もすれば、

かなり見応えのある

枝垂れ桜になりそうです。

秩父の方々のお気持ちが、

桜の力となっているのかも知れませんね。

再び参道へ。

墓地ではあるものの、

「公園」と銘打っているだけあり、

ベンチも多く、遊具などもあって、

畠山重忠公を常に身近に感じられます。

「畠山重忠公の墓」

案内を要約すると

「畠山重忠公は、長寛二年(1164)

秩父庄司重能の二男として、

現在のこの地の畠山館に生まれ

幼名を氏王丸と言い、

後に畠山庄司次郎重忠となった。

剛勇にして文武両道にすぐれ、

源頼朝に仕えて礼節の誉れ高く

県北一帯の支配のみならず

伊勢国沼田御厨(三重県)

奥州葛岡(岩手県)の地頭を兼ね、

鎌倉武士の鑑として尊敬されたが、

頼朝なきあと北条氏に謀られて、

元久二年(1205)

六月二十二日に二俣川にて

一族とともに討たれた。

時に重忠四十二歳、

子重秀は二十三歳であった。」

このようになります。

根も葉もない

謀反の罪をかぶせられたり

謀殺されたりする事は、

珍しくもありませんが、

謀殺された人が、

ここまで顕彰されているのは、

珍しいかも知れませんね。

まるで神社の拝殿みたいです。

お参りへ。

ここで発見したのが、

こちらの案内です。

六基あるお墓の案内の横には、

「音声案内を御希望の方は

右側のボタンを押してください」

このように書かれています。

素直に(笑)ボタンを押すと・・・

お~!音声ガイドが流れてキタ~!

感動しながら聞き入ってしまい、

危うく参拝を忘れる所でした(笑)

真ん中の大きい五輪塔が、

畠山重忠公のものと推定されています。

左横から撮影。

家臣の方々にも参拝・・・。

この日、雨が降らなければ、

ここにお参りする事は無かったはず・・・

改めて畠山重忠公とのご縁に感謝です。

畠山重忠公のお父さん、

畠山庄司重能の墓。

案内に

「重忠公の父、重能の墓は、

重忠墓の東南、椎の木の下にある

自然石であると伝わる」

こう書かれていたので、

東南だからこの石碑の

一角かと思いそこで手を合わせました。

この石碑の右後ろの石に参拝。

ところが、

後から知ったのは、

この案内のすぐ左下だったのです(汗)

この写真の奥側、

左端の案内左の木の根っこの先に

少しだけ見える石が墓石です。

よくやるんですよ、こんな勘違い(汗)

でもお父さんも喜んでくれたはず?(笑)

こちらは五輪塔と板石塔婆。

メインは板石塔婆のようで、

案内もあります。

「板石塔婆」

少し書き出すと、

「記年銘の嘉元二年(1304)は、

畠山重忠公が武蔵国二俣川

(現横浜市)で討死にした

元久二年(1205)から

百年目にあたり、

百回忌供養のために

建立されたものと伝えられる。」

このようになります。

百年経っても人々から

慕われていたのでしょう。

板石塔婆に参拝。

畠山重忠公産湯ノ井戸。

案内を要約すると

「秩父より進出してきた、

秩父荘司重能は武蔵国畠山村に

館を構えました。

のち、長寛二年(1164)

二男重忠が誕生し

その際用いた井戸が、

「畠山重忠公産湯ノ井戸」

と称され伝えられています。」

このように書かれています。

ここが生まれた場所なので、

産湯説も信憑性は高い気がしますね。

館の南側の一角に建つお地蔵様。

お地蔵様を大切にしていた

妻のおばちゃんを思い出し、

ここに来られたことを感謝しつつ参拝。

 

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