日野江城(南島原市)
仲間に入れて欲しい?
有馬氏は日野江城を居城とし、
その後、支城として
島原の乱で有名な原城を作り、
今では世界遺産にまでなっています。
その本城である日野江城は、
「禁教期との関係が薄い」との理由で、
世界遺産の登録からは漏れていますが、
この日野江城、
キリシタン大名の有馬晴信の居城であり
晴信は、多くの信者の保護もしたし、
セミナリヨも作ったし、
島原の乱に於いても
幕府軍側の陣城的な
役割も果たしていたようなので、
出来れば仲間に入れて欲しいかも(笑)
有馬セミナリヨ跡
日野江城へ向かう途中、
通りがかったのが
有馬セミナリヨ跡です。
案内によると、
「セミナリヨとは16世紀に
ヨーロッパの教育制度を
導入して設置した
キリシタンの中等教育機関である。
イエズス会の巡察師ヴァリニャーノは
ミヤコ(京畿)、豊後、
シモ(豊後そ除く九州)の
3つの布教区に、
信徒のリーダー養成を目的として、
各々一般子弟を対象に
セミナリヨとコレジヨを開設することとし、
日本に本格的な教育制度が導入された。
1580年4月、
有馬晴信の援助を受けて
日本で初めて有馬のセミナリヨが
有馬領日野江城下に設置され
22人の入学生でスタートした。
その後、安土のセミナリヨは
伴天連追放令や政情不安のため、
有馬のセミナリヨと合併することになった。」
このように書かれています。
尾藤碑
日野江城の三ノ丸付近には、
車2~3台が停められます。
ここから少し徒歩で戻ると
尾藤碑という石碑が立っています。
こちらは、本丸頂上にあった、
日野江城の全体図で、
尾藤碑は地図の左下の
オレンジ色に黒で
説明されているものです。
大小二つの石碑を覆うかのように、
桜が咲いています。
案内。
概略は、
「寛永十五年(1639年)
二月二十七日
尾藤金佐衛門は、
細川家番頭として、
原城総攻撃に出陣し負傷、
この日野江城に担ぎ込まれた。
その時、重傷にも屈せず、
名号を自然石に刻み
絶命したという。」
このようになります。
ただ、大小どちらの碑が
「名号を自然石に刻み」の石なのかは
わかりません。
大きな碑。
小さな碑。
三ノ丸
日野江城の西側が三ノ丸です。
土塁や土壁のようですが、
後世の畑の跡かも知れません。
三ノ丸からの景色。
石垣も見えていて、
これは曲輪の跡でしょうか、
ズームしてみると、
石垣がよくわかりますね。
動画でも撮影。
本丸
次に本丸のある山頂へ。
このあたりにも石垣が。
天守台的な本丸頂上へ。
動物柵がありますが、
僕たちは一応(笑)
人なので通れます。
案内。
頂上。
ここには櫓台的なものが
あったのでしょう・・(推測)
役小角祠の案内。
日野江神社。
祭られているのは
天狗様でしょうか?
二ノ丸へ向かう途中振り返って撮影。
二ノ丸・大手道へ
日野江城を縦断するかのように
山を登っておりて三ノ丸とは
反対側の二ノ丸へ向かいます。
途中見た海側の景色。
石垣を見ながら大手道方面へ。
やっとの事で到着。
雨でぬかるみ、足場が悪く、
崖のような場所で
滑り落ちそうになりながらも(笑)
気力でここまでやって来たのは、
紹介されていた
素晴らしい遺構を見たかったからです。
(特に妻は期待大でした)
その遺構とは・・・
安土城と同じような
直線的な大手道です。
これが見られるとワクワクしていたら・・
埋められて保存されています(汗)
う~ん、史跡にありがちな保存方法ですが、
妻はテンションダダ落ち(笑)
僕はこの石垣に感動しましたが、
妻はなんとも残念そう・・・
動画も撮影。
最後は妻も元気になったかも?(笑)
しかし、また崖を通って
車を置いた三ノ丸まで
山を登って攻城です(汗)