2020/05/24
平戸護國神社(長崎県平戸市)
護國神社という存在
高杉晋作が下関戦争での霊を祀るため
また奇兵隊の共同の招魂場として
下関に「櫻山招魂場」を作ったのが
護國神社の始まりで、
今も「櫻山神社」として、
続いています。
そして、山口県を発祥として
全国各地に広がり、
明治、大正と長い間、
「招魂場」「招魂社」
という名前で、地元の有志により
運営されてきました。
そして、昭和14年、日本政府は、
日中戦争で多くの戦死者が出て、
今まで、民意によって自発的に
運営されて来た招魂社から
護國神社という名称に改め、
国が運営に関わるような
神社も多く出てきました。
これが護國神社という名前の
始まりですが、わずか6年後、
敗戦により全国の護國神社は
GHQにより軍国主義施設として、
その名前の使用が禁止になりました。
護國神社という名前が復活したのは、
1952年、サンフランシスコ講和条約が
発行されてからのことになります。
そんな歴史の護國神社に参拝するのは、
僕たちにとって何か
特別な気持ちにさせられます。
高杉晋作から脈々と
受け継がれてきた、
国を守り、命を散らした方々のお陰で
今の平和な日本があるという
崇高な気持ちになれるからです。
平戸護國神社へ
亀岡神社の隣、歩いて3分で、
平戸護國神社の入口です。
車道にかかる鳥居。
護國神社の手前には、
境内社があったので、
まずはこちらに参拝。
護國神社の境内社とすれば
参拝の順番が違いますが、
すぐ横の亀岡神社の境内社とすれば
参拝の順番は合っています(笑)
案内は無いので、
どんな神様かは分かりませんが、
参拝は完了。
護國神社の境内入り口。
平戸護國神社と書いた石柱。
平戸城の天守と社殿を添えて(笑)
拝殿前の狛犬は
昭和20年5月の奉納。
戦争末期、多くの戦死者が出ていた頃
その霊を慰めようと
石細工の職人さんは
心をこめて作った気がします…
吽形。
拝殿。
背後には平戸城の天守が
英霊たちを見守るように
そびえ立っています。
参拝。
本殿。
ここで、ツーショットも完了。
次に行ったのが、
護国神社に隣接する相撲場です。
天守から見ていたものを
間近に見ると、ちょっとビックリ!
何と、四本柱ではなく、
両国国技館と同じ、
釣り屋根なんですよ!
相撲大会などの時は、
この屋根の四隅に「房」が
垂らされるのでしょう。
柱だと力士が怪我をする事も
あるし、柱を気にして
相撲を取らなければいけないので、
これは、素晴らしい施設です。
土俵だけでなく、観戦施設としても
広さや、傾斜をつけた観客席(芝生席)
どれをとっても文句無し!
ここまでの土俵施設を作った
平戸市は相撲が盛んな地域なんだろうか?
っとふっと思った僕でした。
土俵ばかりに気をちられてはいけません、
ここにはこんな見どころがあるのです!
懐柔(かいじゅう)櫓。
聞くだけだと、
どうしても怪獣櫓と
変換してしまいます(汗)
見奏(けんそう)櫓。
これは天守に行ったときに
上から目線、いや上から視線で
見ていたものですが、
下から見上げると
高さがあってなかなか
壮観ですね!
そして、こんな写真も撮れます。
左が模擬天守、右が見奏櫓。
ほとんどの人は「お城=天守」
なので、ここまで来て、
天守や櫓を下から見学したり
撮影したりする人は
誰もいません。
僕たちだけの専用撮影スポットを
満喫でき、めでたしめでたし(笑)
怪獣…いや懐柔櫓横から見る
平戸大橋方面の風景も堪能。
その後、境内に戻り、
護國神社ならではの石碑にも挨拶。
戦死された平戸の方々の碑。
風光明媚な町に育った方々に
故郷を思い出させてくれる
清々しい場所にこの碑はあります。
海軍顕彰(けんしょう)之碑。
陸軍顕彰之碑。
海軍は境内の中にあり、
陸軍は境内の外にある…
常に仲が悪かった
海軍と陸軍が喧嘩しないよう
少し離れた場所に建立したのかな?(笑)
これにて、平戸護國神社の参拝は
無事完了し、次の目的地、
平戸御館へと向かいます。