本行寺(佐賀市)成富兵庫茂安の墓

 

剣をペンにかえて

成富兵庫茂安は、

戦国時代から江戸時代初期の佐賀藩士で、

戦国の世では戦場で多くの武功をあげ、

平和な江戸時代になると

治水をはじめとする佐賀藩のインフラ整備で、

突出した功績を残した人です。

僕たちは約6年前、

石井樋いしいび公園を訪問し、

成富兵庫茂安が整備した

当時の姿を体験したのですが、

その偉大な人物のお墓が、

佐賀市の本行寺にあると知り、

今回の参拝となりました。

「剣をペンにかえて」活躍した茂安さんは、

大きな時代のうねりに翻弄される事なく、

その時々で自分が置かれた立場を

流れに沿うように最善の生き方をした人。

ある意味、

人生の理想形かも知れませんね!

成富兵庫茂安の墓

参道脇の江藤新平の墓をお参り後、

成富兵庫茂安の墓へ。

パンフから抜粋した境内案内。

茂安さんのお墓は、

本堂の南西に位置しています。

逆に言えば、

本堂は茂安さんのお墓の北東で、

鬼門封じになっているんですね!

妻が見つけた案内を頼りにお墓へ。

到着。

「成富兵庫茂安の墓

(生没年:1560ー1634)」

案内を書き出すと以下になります。

「成富兵庫茂安は

成富甲斐守信種の次男として、

鍋島町増田で生まれました。

龍造寺隆信や鍋島直茂・勝茂父子に仕え、

16世紀後半から

17世紀前半に活躍した武将で、

多数の戦功があります。

戦乱が治ると佐賀藩では

年貢の安定・増収を図るため、

治水事業に力を注ぎます。

成富兵庫は築城などの土木技術を活かして

筑後川の千栗ちりく堤防や佐賀城下への

導水施設である石井樋の建設など

多数の事業を行いました。

没後、彼の領地(大和町尼寺)の

築山古墳上に葬られました。

本行寺のこの墓には毛髪が

納められているということです。

成富兵庫の治水事業は田畑を潤し、

洪水から人々の生活を守りました。

その自然に逆らわない水利技術は

今も高く評価されています。」

また、追加して、

本行寺のパンフレットを抜粋すると

「二十才までに早くも戦功十回を重ねて

龍造寺隆信より

十右衛門の名を頂戴している。

鍋島になっても、

秀吉の薩摩攻めや天草攻めで軍功をあげ、

朝鮮の役にも出陣し、

関ケ原の戦では、

浮沈に直結した鍋島家の去就に関わり、

徳川家康に強いられた柳河攻めも収めて、

戦場のみにとどまらぬ茂安の

非凡の先見性と政治力で大きな功績を残す。

藩祖直茂の信頼大きく

一字を与えられて茂安を名乗る。

徳川太平の世、

領内の耕地開発と治水に身を挺して奔走。

茂安の手法は、事前の徹底した現場調査、

雛形での実験、自然界に逆らわず、

堤防の強さのみに依存しない

乗越、洪水敷、防水林等を用意する

茂安独自のものであった。

千栗でも石井樋でも

十二年の歳月を要しているが、

これも茂安が農繁期っを避けた故であり、

茂安は作業小屋にも泊り

同じ物を食したという。

北茂安町や佐賀市兵庫町は

成富兵庫茂安の遺徳を

今に伝えるものである。」

このように記されています。

百姓の身になって考え、

無理をせず工事を進める・・・

苦労人だからこそ出来る技かも知れません。

墓域全景。

参道。

真ん中が茂安さんのお墓です。

左は奥様の墓かな?

参拝。

右横の殉死した家臣の墓にも参拝。

「殉死者之霊」と刻まれています・・

最後に茂安さんのお墓から、

鬼門守護の本堂を撮影し

本行寺でのお墓参りは完了です。

 

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