本住寺(山形県鶴岡市)加藤忠広の墓
熊本から山形へ
Wikipediaによると
慶長十六年(1611)、
加藤清正の後を継いで、
熊本藩主となった息子、忠広は、
寛永九年(1632)改易され、
庄内藩預かりとなり、
母(加藤清正の妻)と共に
一時期を本住寺で暮らし、
亡くなった後、
一緒に付き添った母親の墓に入り、
今も二人仲良く眠っています。
しかし、
家康の孫でもある正室とは、
不仲だったようで、
正室は庄内には同行せず、
京都で暮らしたそうです。
僕自身は、
側室とその子らを優先し、
家康の孫の正室を疎かにしたのも
改易の理由のひつだったかと
勝手に解釈していますが、
真相はどうなんでしょう?
本堂
雨が降りそうで、降らない中、
本住寺に到着。
塀には、
「史蹟 加藤清正公夫人
加藤忠廣公 墓所
金照山 本住寺」の案内が
埋め込まれています。
山門前。
山門は丸瓦。
寺紋は2種類で、
左右は加藤清正が使用した、
蛇の目と桔梗を
ミックスしたものになっています。
山門入って左側のお堂。
本堂に参拝。
この本堂、彫刻が素晴らしいのです。
軒下の龍、繊細ですね〜!
狛犬(阿形)
狛犬(吽形)
墓所
本堂参拝後は、お墓へ。
本堂左端の案内図と
実際の墓所の建物(霊屋)、
完璧にシンクロしていて、
めっちゃわかりやすいですね。
これ作った人、グッジョブ!
迷う事なく到着。
霊屋正面。
案内標柱。
「山形縣史蹟」と旧字体なので、
戦前の建立かな?
参拝。
右が母(加藤清正夫人)、
左が加藤忠広の墓。
忠広の五輪塔最下部には、
「帝光院殿証誠覺日源大居士」と
赤文字で刻まれています。
突然の54万石からの改易、
九州熊本から、
遠く離れた庄内の地で暮らした二人、
何を思っていたのでしょうか・・
墓参後、
本堂前にてツーショット。
この後は、
藩主酒井家の居城、
鶴ヶ岡城へと向かいます。