一乗谷城(2017年福井の旅)(福井市)後編

 

歴史の見方

越前朝倉氏と言えば、織田信長に滅ぼされた

弱くて時代を読めなかった

残念な家柄としか

認識していなかった僕ですが、

朝倉氏の本拠地に行って見ると

朝倉氏の立場に立ってしまい、

戦国時代に中立は

許されるものでもなく

お隣の浅井(あざい)氏との絆も深く、

時代の流れに飲み込まれてしまった

少し可愛そうな朝倉氏に同情したり

元を正せば、朝倉氏自体も

下克上でのし上がったのだから

そんな最後も仕方ないな〜っと

逆に思ったり、

でも生き残る道は無かったのか?

など、色々と想像してしまいます。

そんな想像に至るのが、

実際に行って感じるからこそで、

刑事が犯人を捜すのに

頭で考えるのではなく、

現場にこそ解決の糸口があり

そこで多くを感じろという意味で

「現場百遍」とは

良く言ったものだと思います。

僕は犯人を捜しはしませんが(笑)

ただ、僕がここに足を運んだのは、

前編で書いた、「復原町並」

興味津々で、それに釣られた?からで、

やはり「目玉」は必要なんですね(笑)

朝倉義景館へ

復原町並から一乗谷川を渡ると

狭い堀に囲まれた区域があり、

ここが朝倉氏最後の当主だった

朝倉義景の館跡になります。

木橋を渡り復原された唐門に向かいます。

唐門の先は広大な敷地になっていて、

ここに朝倉義景(朝倉氏代々?)の

館がありました。

詳細な平面図とともに

案内があるのは、親切ですね!

館の礎石が残っています。

敷地の一角には

「五代義景公墓所」の立て札が。

自身が住んでいた館の隅に

お墓があるとは…

僕たち観光客を見て、

義景は今、何を思うのでしょうか。

灰燼に帰した館のあとが、

多くの人が訪れる賑やかな場所になって

喜んでいるかも知れませんし、

騒がしくてゆっくり出来ないと

怒っているかも知れません…

ここから丘に登ります。

朝倉氏庭園の案内。

昭和5年にはすでに

国の名勝に指定されていたものの

手つかずで荒れていたものを

昭和62年から本格的に発掘調査をし

今の素晴らしい遺跡公開に繋がっています。

石碑は「湯殿跡庭園58」

矢印は「館跡庭園」

いったいどっちなの?

行ってみると「どっちも」ありました(笑)

丘の上から見た館跡の全景。

そして、ここにタブレットをかざすと…

お〜!

これは感動ですね!

今見ている同じ風景に

バーチャル館が建って、

説明も出てきますよ!

そして、また丘を登っていくと

広い敷地があらわれます。

こちらが湯殿跡庭園。

かなり詳細な想像図で、

往時の庭園が池や石橋もある

広大な枯山水のような

素晴らしいものだったことが

わかります。

湯殿跡庭園からの景色。

朝倉義景の実母、

光徳院が住んでいた「中の御殿跡」

光徳院は、朝倉氏が滅びた時に

朝倉義景の子供(光徳院の孫)とともに

織田勢に捕まり、その4歳の孫は殺され

越前朝倉氏の血は絶えたそうです。

そんな悲惨な最後を考えると

この栄華を誇った御殿の跡も

悲しげに見えてきます。

そんな気持ちとは裏腹に

僕たちはいつものツーショット(笑)

一乗谷川と復原町並バックにパチリ。

一乗谷朝倉氏資料館へ

一乗谷城から車で5分ほどの場所に

一乗谷朝倉氏資料館があります。

 

玄関。

入るとそこにあったのが、

こちら。

「どこからシール」

福岡県は僕たち二人でしたが、

福井県(県内)からの来館者はゼロです(汗)

確かに僕も地元の事は

知らないところがいっぱいですから(笑)

何故か写真はこの一枚だけ撮っていました。

多分「毛抜」に反応したのでしょう(笑)

展示もたくさんあったはずなのに

資料館内の記憶があまりないのは、

感動しなかったというよりも

時間に追われていたのかな〜(笑)

今日の癒し

福井市内でのランチ。

手打ち蕎麦「ふじ田や」

素晴らしい内容ですね!

これを全部堪能しました。

福井名物のツートップ、

福井発祥の「ソースカツ丼」と

大根おろしと出汁で食べる「越前そば」

ここの店にして

本当に良かった〜癒された〜(笑)

 

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