伊和都比売神社(赤穂市)
改易前の功績
伊和都比売神社が鎮座するのは、
「御崎地区」と呼ばれる、
風光明媚な場所です。
神社前の案内。
「ストーリー2御崎の信仰」を
抜粋・加筆すると以下になります。
「伊和都比売神社は浅野長矩が、
岩礁「大園」(現在の畳岩)に
あった祠を遷し建立したものです。
比売神(姫神)は
いつしか縁結びの神となり、
現在は近隣スポットが
「恋人の聖地」の
認定を受けて人気を集めます。
御崎地区には、
伝統的な大師信仰が残されていて、
斜面地に広がる住宅街を中心に、
8か所の大師堂が作られています。」
ここで書かれた浅野長矩とは、
赤穂事件で有名な
浅野内匠頭長矩さんの事です。
参拝後訪問した「畳岩」(大園)。
こんなところに
伊和都比売神社の前身の
祠があったのです・・・
やはりここでは危険すぎでしょう(笑)
神様をお遷しした長矩さん、
江戸城、松の廊下の刃傷沙汰で
切腹し浅野家は改易、
その後の赤穂義士の仇討ちで
有名人になりましたが、
こんな隠れた功績も
残されていたようです。
ご由緒
まずは、ご由緒から。
「延喜式内社
伊和都比売神社 由緒」
抜粋すると
「千年前の延喜式神名帳に記載する古社で、
「伊和都比売大神」を
おまつりしています。
江戸時代赤穂藩浅野家初代藩主、
浅野長直が現境内地に社殿の建立を着手、
孫である浅野内匠頭長矩の治世、
天和三年(1683)に完成し
ご遷座されました。
現拝殿は昭和五年(1930)
現在の場所に再建され、
その際に御本殿は再建ではなく
天和三年当時のままの姿で
拝殿北側に建材変わらず移築され、
御祭神は今も昔も変わらぬ空間で、
私達をお守りしてくださっています。」
このようになります。
親子三代で成し遂げた遷座、
しかも本殿は長矩も
ご覧になったかも知れない、
創建当時のものとは、
素晴らしいことですね。
参道
境内前部分は駐車場で、
ここは海のすぐ近くです。
先に御社殿とは反対の海方面へ。
緑のコーンには、
神社ならではの案内が・・・
「境内コーンは、
神社所有物保護、及び
正中(御本殿より続く神様の道)
を表す為、職員以外の
勝手な移動を固く禁ず。」
神様の道としての
「正中」について
解説している神社は、
あまり見かけませんが、
「正中を歩かないように」
ここまで書かれていないのは、
優しいご配慮なんでしょうね!
(僕はよく歩きます・・
神様ごめんなさい!)
霞んでいはいるものの
瀬戸内海に浮かぶ、
西島、家島などが確認できます。
視線を西側にやると
目に入ってくるのは小豆島です。
意外と近いのですね!
ここから回れ右して、拝殿へ。
切り込み接ぎの石垣、
美しいな〜!
一の鳥居。
神額の文字は、
この神社を
崇敬していたと書かれている、
東郷平八郎元帥です。
Wikipediaによると
「明治時代には東郷平八郎が
日露戦争開戦前に勝利祈願のため訪れた。
このことから、
帝国海軍関係者の信仰を集め、
戦前まで東郷平八郎を初めとする
連合艦隊司令長官が艦隊を率いて
海上より参拝を行った。
現在も航海安全や大漁の祈願など、
船乗りらによる
海上からの参拝は盛んに行われている。」
このように書かれています。
石段を上り、さらに進みます。
御社殿のある境内へ。
左右に手水舎が見えていて、
まずは、左側へ。
古そうな感じだな・・
そう思いながら側面を確認。
お〜文政二年(1819)ですね!
御年、200歳余、
今も現役で頑張っておられます。
お手水完了。
そして、
向かい側の手水舎へ。
こちらは水も柄杓もないので、
「先代さん」のようです・・・
近づくと、こんな案内が。
案内を書き出すと、
以下になります。
「本手水鉢は、江戸城
松の廊下での
赤穂藩主浅野内匠頭長矩の
刃傷事件があった
元禄十四年氏子の皆様から
当社に寄進されたものである。
当時の時節を考えるに、
藩民が藩の平穏と安泰を祈念し
神のご加護を乞うたものと思われる。」
歴史の生き証人のような、
凄いものが残っていたんですね!
「元禄十四辛巳年九月吉日
奉寄進手水鉢
氏子中」
300年以上も前のものですが、
刻印もはっきりしていて、
神社さんがこの手水鉢を
いかに大切に扱われてきたかを
うかがい知ることが出来ます。
注連縄柱も立派。
御社殿
手水鉢で感動した僕たち、
ようやく御社殿へ。
拝殿。
阿形の狛犬。
吽形。
兵庫県では、
「ミサンガ」(笑)をしている狛犬を
よく見かけます。
江戸時代、建立当時のものを
移設した本殿にも参拝。
左から拝殿、幣殿、本殿。
境内社へ参拝。
御朱印も授与いただき参拝は完了・・
いや、もう一つ、
大切なイベントが・・
これで本当に参拝完了です(笑)