花岳寺(兵庫県赤穂市)前編

 

お堅い話を柔らかく

花岳寺かがくじ訪問の主目的は、

四十七士のお墓にお参りする事。

忠臣蔵だ、赤穂浪士だと

何かと「お堅い」話ではありますが、

そんな「堅さ」をぶち壊すのが、

こちらの境内図です。

うひゃ〜!黒ニャンコちゃんの

オンパレードですよ!

何だか砕けたように見えますが、

写真撮影禁止箇所が、

一目瞭然に表示されていたり

分かりやすさ抜群なのです。

そして、

この素晴らしいアイディアの素は

こちらです。

「The 47BlackCats “SAMURAI CLASH”」

僕がガラスに反射してしまって

猫ちゃんがよくわからないかな?

でもいいか(笑)

案内を抜粋します。

「なぜ黒猫?

「The 47BlackCats」は

赤穂浪士のお話を

より多くの方に知って頂く

きっかけとなればと思い、

考えたキャラクターです。

なぜ黒猫かというと・・・?

「赤穂事件」は主君の敵討ちだけでなく

幕府に抗議するために

立ち上がった男達のお話と言われています。

当時の将軍綱吉は

”犬公方”と呼ばれていました。

犬に対して猫・・・。

そして黒装束に身を包み、

見事に本懐を遂げた男達・・・。

黒猫?!また黒猫は、

昔から招き猫に見られるように

縁起の良い動物・・・。

「The 47BlackCats」は

こうして生まれました。」

なんか感動するストーリーですね!

しかも考案されたのは、

地元赤穂出身の方で、

ここにも

「地元の歴史への愛情」を感じます。

The 47BlackCatsのお陰で、

お堅い話を柔らかく、

そして楽しく学べることは

間違いありませんね!

山門

まずはお寺の御由緒から。

案内を抜粋すると

「当山は曹洞宗に属し、

正保2年(1645)

赤穂藩祖浅野長直公によって

建立された寺である。

元禄事件後は、

歴代藩主の菩提寺となる。」

このようになります。

お城好きにの僕は、

「正保」と聞くと、

「正保の城絵図」を思い出します。

正保元年、時の将軍家光さんが

大名達に出した、

「城の絵図を提出するように!」

とのお達しに基づいたもので、

全国から膨大な数の城絵図が集まり、

それが今では貴重な資料として、

国指定重要文化財になっているのです。

そんな時代背景もあって、

この頃、赤穂藩浅野家も

お寺建立とともに、

城絵図作りで、

奔走していたかも知れません(笑)

花岳寺の有難いところは、

綺麗に整備された駐車場が

まるで僕たち専用の如く

存在していること(笑)

ここから徒歩で、山門へ。

山門前。

案内を書き出すと

以下になります。

「山門は、

もと赤穂城の西惣門であって

明治6年に花岳寺二十一世

仙珪和尚が購入移築したものである。

(中略)

高麗門形式をとり

西惣門の遺構であるため

素朴無骨で武家門の風格を備え、

城郭付属建築として、

史的価値の高い貴重な門といえる。」

高麗門の「羽の中」に納まる門扉。

境内側から撮影。

屋根瓦には浅野家の家紋、

通称「虫喰い鷹」が

細やかに表現されています。

大石名残の松

大石内蔵助が母のために

植えた松がここにあったが、

枯死したので、現在の

二代目が植えられたそうです。

右が松。

松のアップ。

この角度だと、

枝ぶりの素晴らしさが、

際立って見えますね!

こちらは初代の松の切り株。

奥には元気な頃の写真も飾られ、

大切に保管されています。

鳴らずの鐘

松のさらに右側、

手水舎の先にあるのが、

「鳴らずの鐘」です。

「鳴らずの鐘」

案内を要約すると

以下になります。

「二代藩主浅野長友公が

父長直公のために鋳造し、

その後、

赤穂浪士の切腹の知らせを受け

四十六士の死を悲しみ花岳寺に集まり

この鐘を延々とついた。

「爾来音韻を失すること五十年」

「寛政九年再改鋳」

と梵鐘に銘記してある。

音韻を失していた間、

この鐘をだれいうことなく

「鳴らずの鐘」と行っていた。

義士との由緒深く、

太平洋戦争の金属供出を逸れた。」

桜の木の鐘撞棒もあり、

今はちゃんと鳴るようです(笑)

手水舎

これがまた、

ただの手水舎ではありません(笑)

いい雰囲気だな!

と思いつつ近づくと・・・

お〜水琴窟ですね!

「日本の音色

内蔵助も聴いた水琴窟」

こちらは水琴窟の作者の

お言葉が掲げられています。

「大石内蔵助による

元禄十四年(1701)の赤穂城明渡しは、

実に見事なものであったと云う。

歴史によれば、その六年前に

備中松山城が

世継ぎ不在のため改易となり、

明渡しの労をとったのが内蔵助であった。

備中高梁には、

水琴窟を考案した小堀遠州が

国奉行として

慶長九年(1604)から滞在し、

遠州の手による頼久寺庭園(国指定名勝)が

今も残されている。

内蔵助も執務の傍ら

水琴窟の妙なる音色に耳を傾け、

疲れた心を癒していたのでは

ないだろうか。

私は、日本三大上水道のまち、

播州赤穂に育ったものとして、

内蔵助も聞いたであろう水琴窟の音色を

現代の人々に身近に聞いてもらうため、

地上型水琴窟を誕生させました。

皆様も、内蔵助の像に一勺の水を注ぎ、

時代の流れに左右されない心癒される

水金の音色をお楽しみください。」

「地上型水琴窟製作者

雲火焼作家

長棟州彦」

確かに水琴窟は「地下に作るのが

当たり前で、

「地上型水琴窟」というのは

初めてでしょう!

音色を楽しむ妻。

参拝前から癒されまくりです(笑)

本堂

次に本堂へ。

手入れの行き届いた参道。

本堂入って左には

賓頭盧尊者びんずるそんじゃさんが鎮座。

かしこまり過ぎず、

笑顔で参拝できるのも

「The 47BlackCats」のお陰でしょう!

いや〜ホント、

素晴らしいキャラクターを

創ってくれたものですよ!

本堂前には、

こんな案内があります。

もちろん、お言葉に従い、

天井を見上げると・・・

お〜いましたよ!大きな虎が!

天井絵の説明を

要約すると、

「之はもと五月節句の幟として

画れたもので

一間半に五間の長さである。

安政元年(1854)寅年に

赤穂出身の法橋義信(周得)が

67歳の時に画いた。

この画は、

当寺開山禅師三百回忌を記念して、

義信の曾孫、長安淳二氏により

掲げられた。」

黒猫のキャラ、水琴窟、

そして、この天井絵、

全てが地元赤穂の方々の作品というのも

なんか嬉しくなりますね!

ここには忠臣蔵の年表などもあります。

この後、いよいよ

四十七士のお墓へと向かいます。

(後編に続く)

 

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