神柱宮(宮崎県都城市)

 

平季基

神柱宮のサイトによると

「萬壽年間(西暦1024~1028年)に

太宰府より大監(たいげん)

という職にあった平季基

(たいらのすえもと)が

来都し、無主の荒野であった

日向国諸県郡島津一帯を開墾して、

宇治関白藤原頼通に寄進されました。

後の鎌倉時代、薩摩・大隅・日向に

またがる日本最大の荘園と称された

「島津荘」の成立に起因します。」

その平季基がこの地に家を建てようと

門柱を500人で牽いたが、

動かなかったところ

その娘が神かがりし、

「「我は伊勢の外宮なり、

此の地において万民を護ろうと思う。

速やかに社を建てて、

その社の名を『神柱』と称すべし云々」

という御神託により、

季基は伊勢の神宮へ赴き

皇大神様の御分霊を奉戴して、

同年9月9日、

諸県郡中郷村大字梅北字益貫に

創建奉祀されたのが

「島津御荘總鎮守神柱宮」の

始まりです。」

このように書かれています。

神柱というのは、

門柱から来た名前なんですね!

大いに納得です(笑)

道の駅酒谷(さかたに)

日南から都城へ戻る途中、

自分土産を買うために立ち寄ったのは、

日南ダム近くの「道の駅酒谷」。

茅葺きの建物と

素朴な看板が、

何とも風情がありますね!

選んだのは、「宮崎よもぎ折り餅」。

期待以上に美味しかった~(笑)

神柱宮へ

都城に着いたのは、午後5時ごろ。

列車の発車時刻までは、

1時間半ほどあるので、

「時間が余れば行こう」と考えていた

神柱宮へ参拝することに。

一の鳥居。

柱の根本に書かれた案内によると

「柱廻り8.9m

高さ25m  笠木幅32.4m

額 長さ4m 幅2.6m」

このように書かれていて、

ネットで調べると、

全国で六番目に高い鳥居のようです。

ちなみに

一位は和歌山県、

熊野本宮大社の旧社地、

大斎原(おおゆのはら)に建つ鳥居で、

二位は奈良県、

大神神社(おおみわじんじゃ)

鳥居となっています。

妻との高さ比較。

参道両脇は、

神柱公園として整備され

市民の憩いの場になっています。

この日は植木市が催され、

屋台も少し出ていました。

社頭

実は、車を

社頭の駐車場に停めたので、

社頭→一の鳥居→社頭、

こんな往復をした為に、

ここで、かなりの疲れが(汗)

社頭から参道、

一の鳥居を振り返って撮影。

う~んよく歩いたな~(笑)

社頭。

社号標。

「神宮大宮司

徳川宗敬(とくがわ むねよし)謹書」

と書かれています。

Wikipediaで調べると、

水戸徳川家の方で、

サンフランシスコ講和条約の

全権委員にもなった人でした。

二の鳥居。

階段の両脇に鎮座するのは、

櫛磐窓神と豊磐窓神。

どちらがどの神様かは

分かりませんが、まずはご挨拶。

反対側。

櫛磐窓神または、豊磐窓神。

御由緒。

明治6年に遷座し

ここに祭られています。

拝殿へ

手水を終え拝殿へ。

境内は僕たち二人の独占です。

午後5時を過ぎているので、

拝殿の扉は閉められています。

神様を叩き起こしてでも、

ではなく、

神様のお邪魔にならないように

そっと参拝します(笑)

拝殿の神額も

社号標と同じく徳川さんの書。

神紋は五七の桐。

基柱神社(境内社)

次に境内社へ。

「基柱神社」。

冒頭に書いたように、

平季基という方が、

この神社の創立者で、

ここに祭られています。

太宰府天満宮の菅原道真も

一緒に祭られているのは、

太宰府で働いていた平季基が

この地(島津荘)を

開拓に来たからかも知れません。

立派な石碑も建っています。

参拝。

御神木

次に手水舎横の御神木へ。

御神木という表現が

正しいか否かは別にして、

昭和天皇陛下が皇太子時代の

大正九年にお手植えされた

銀杏の木の枝ぶりが

あまりにも見事なので、

思わずご神木と書いてしまいました。

最後にツーショットで参拝は完了。

 

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