寒山拾得石像(宮崎県高鍋町)
魅せる案内板
至って地味~な石像という存在、
寒山拾得(かんざんじっとく)石像も
その例外ではありません。
従って、
石像の歴史や言い伝えを
文章に書いて見せただけでは、
よっぽど石碑愛(笑)がある人にしか
あまり響きません・・・
ところが、高鍋教育委員会の方々は、
マンガという手法を駆使して、
誰にでもスッと入り込める
素晴らしい案内板を作られていたのです。
情報を客観的に伝える事が、
「見せる」ならば、
熱い思いや感情を伝えるのが、
「魅せる」でしょう。
まさに、
「魅せる案内板」を提供してくださった
高鍋教育委員会さん、グッジョブです!
参道
寒山拾得石像は、
目立ちそうで目立たない場所に
安置されています。
高鍋城駐車場石垣の真ん中あたり、
クスノキの後ろ、
鯉のぼりの右側の
杉の木が密集している場所です。
杉並木の参道入口。
令和二年奉納の幟が、
雰囲気を盛り上げてくれます。
見えてきました。
まずは参拝。
そして、
こちらが冒頭に書いた、
「魅せる案内板」です。
「寒山拾得の石仏」
(身代わり菩薩 かんかん仏)
銘・天文18年(1549年)
このように書かれ、
マンガと文章が続きます。
文章を書き出すと
次のようになります。
「高鍋町の舞鶴公園・二の丸の東側に
ひっそりと傷の入った石像が
二体立っていて、
みんなには「かんかん仏」と言われて
親しまれています。
中国における民間信仰の
道教神と考えられ、
もともとは、宮崎県串間市
(江戸時代は高鍋藩領)にあったものを
江戸藩邸に移し、
明治時代になって
神奈川県藤沢市の別邸に、
更に現在の高鍋城内に移しました。」
「かんかん仏」が江戸藩邸にあった頃、
毎夜邸内を歩き回る怪しい者がいたので、
宿直の藩士が妖怪の仕業と考え
ある夜待ち伏せ
現れた妖怪と立ち回りとなり
一刀切りつけました。
手応えがあり、
姿は消え失せましたが、
戦った藩士もその立ち回りで
傷を負ってしまい高熱を発しましたが、
幸いにも一命はとりとめました。
翌日、藩士の傷は消えており
身代わりになったのか、
邸内の「かんかん仏」石像に
刀傷が残っていたのでした。
その後、歩き回る者はいなくなり、
秋月家に『何かあると、
この傷がはっきり出て
夜泣きして知らせる』と言われています。
凶兆を知らせ身代わりになってくれ、
たいそうご利益があると言われており、
年中お供え物が絶えることがありません。」
このお話、
僕の妻が最近体験したのと
よく似ています。
1周間以上も腰が痛くて
寝返りも出来なかった妻が、
いきなり旅の前日、
全く痛みがなくなったのです。
その日、観葉植物の葉っぱが
枝葉ごと8枚落ちていました。
いつもなら1枚づつ落ちるのに・・・
間違いなく「身代わり葉っぱ」です。
僕たちは、
こんな経験をしたばかりだったので、
ここに書かれている事が、
スッと心に入ってきました。
改めてじっくりと拝見。
右側の石像。
間違いなく刀傷ですよ!
左側の石像。
やはり刀傷があります・・・。
まさか、高鍋城でこんな感動的な
石像に出会えるとは・・・
もしかしたら昨年秋、
高野山奥の院で、
秋月家墓所を参拝した事で、
ここに導いてくださったのかも
知れません・・・。
もう一つの寒山拾得
「かんかん仏」の手前に、
小さな石像があります。
石に陽刻された寒山拾得像です。
後世、どなたかが
奉納されたのでしょうが、
こちらも生花が供えられ、
とても大切にされています。