稲童1号掩体壕(福岡県行橋市)

 

籠城戦

専守防衛。

これが日本の国是です。

しかし、

日本国内で「守る」という事は、

戦国時代の籠城戦をやるのと

何だか似ている気がします・・・

籠城戦においては多くの場合、

援軍が来る事が勝利の「必須条件」です。

鳥取城、三木城、

高天神城諏訪原城

総構えの強固な小田原城

そして豊臣秀吉が築いた

巨大城郭の大阪城でさえも、

籠城するも援軍無く落城しています。

鉄砲の一斉射撃で有名な

長篠の戦いにおいても

織田・徳川の援軍が駆けつけ、

設楽原の戦いで勝利しなければ、

武田勝頼の攻勢で、

籠城中の長篠城は落城、

城主の奥平信昌は討ち死にし、

その子孫が作った

現在の大分県の中津城天守

無かったでしょう・・・。

第二次世界大戦末期、

日本政府は、

援軍が全く期待出来ない中、

一種の籠城戦である

「本土決戦」を考えていました。

過去に読んだ本では、

もし本土決戦が行われた場合、

日本人は一千万人が死に、

アメリカ軍も百万人の損害が出るという

試算を見た事があります。

そんな本土決戦の前哨戦である

「本土防空戦」の遺構が、

今回の目的地、

稲童1号掩体壕という、

飛行機の隠れ家です。

駐車場

稲童1号掩体壕近くには、

専用の立派な駐車場があります。

駐車場全景。

そしてここで、

妻が「これ、見て!」と

雄叫びを(笑)

見てと言われたのは、

側面に行橋市が誇る国指定史跡、

1300年前に築造された古代山城、

御所ヶ谷神籠石」の

水門がプリントされた

駐車場内の自動販売機です。

ただ、この販売機よりも

妻が以前ここに行った事を

覚えていた事実に

僕はびっくりしました(笑)

このお城は、

白村江の戦いで負けた日本が、

唐・新羅の侵攻に備えて造った

朝鮮式山城の一つで、

いわば「籠城戦」としての機能も

持っていましたので、

この自動販売機、

今回のテーマ?とも合致しています(笑)

稲童1号掩体壕の案内。

文章を抜粋・要約すると

「昭和19年8月頃築造。

掩体壕とは軍用機を

敵の空襲から守るための格納庫で、

築城海軍航空隊の掩体壕は

ここを含め数基が残っています。

この掩体壕は、夜間戦闘機「月光」、

陸上爆撃機「銀河」、「一式陸攻」など

双発機を格納する大規模な掩体壕です。

稲童地区は、飛行場の北側に位置し、

掩体壕など多くの軍事施設があった事から

しばしば空襲を受けました。

安浦神社など稲童地区の随所に

今も残る機銃掃射の弾痕は

空襲の被害が激しかったことを

物語っています。」

このようになります。

掩体壕が築造されたのが、

サイパン島が陥落し

東条英機内閣が総辞職した翌月、

昭和19年8月と書かれていますが、

資材も枯渇している当時の日本で、

これだけのものを緊急に作ることは、

結構な大事業だったでしょう・・・

遠景。

これだけを見ると、

今でも現役のように感じます・・・

近影。

青空の掩体壕の前に、

白い雪が降り始め、

まるで御英霊の魂のように

見えてしまいます・・・

中を撮影。

斜めから。

妻を入れて大きさの比較写真。

この後、突然、

妻が掩体壕に向かい

とった行動は・・・

「貴様と俺と~は同期の桜~♪」

胸を張り、拳を降りながら

いきなり大きな声で、

「同期の桜」を歌い出したのです・・・

僕もしばし胸を打たれていました。

御英霊の方々へ、

妻の慰霊の念は届いたはず・・・

少ししんみりした瞬間です。

掩体壕の上部。

上から見ると小山に見え、

カモフラージュ完璧です。

レンガ塀

ここには、機銃掃射の痕が残る、

レンガ塀の一部が移築展示されています。

まずは、

写真と図面を使った解説で、

詳しく表示されている事に、

感銘を受けてしまいます・・・

案内には、

昭和20年8月7日の空襲時に

機銃掃射された民家のレンガ塀で、

このとき、20戸が全焼・倒壊し、

住民も亡くなっていると書かれています。

雪が降りしきる中、

佇む弾痕が残るレンガ塀。

黒い弾痕と白い雪・・・

戦争の悲惨さを

無言で語りかけて来ます・・・

奉安殿

レンガ塀の横に配置されたのが、

戦前の小学校などにあった

奉安殿です。

 

「旧仲津小学校奉安殿」

案内を書き出すと

「これは昭和二年(1927)に

仲津小学校に建てられた奉安殿です。

奉安殿とは天皇・皇后の写真(御真影)と

教育勅語を保管するための施設です。

神社風、ギリシャ神殿風など、

重厚で威厳あるデザインで作られました。

校内でもっとも神聖な場所として、

式典や日々の登下校の際に

最敬礼することが義務付けられるなど、

忠君愛国思想を

高揚する役割をになっていました。

昭和20年アジア太平洋戦争が終わると

各地の奉安殿は撤去され、

多くは解体されました。

仲津小学校にあったこの奉安殿は、

仲津村青年団・少女会によって

覗山(のぞきやま)中腹に移設され、

平成26年7月まで戦没者をまつる

英霊廟として使われました。

戦前・戦中の社会の動きや

教育の歴史を物語る

貴重な資料であることから、

平成30年、現在地に移して

保存することとなりました。」

このようになります。

僕達は以前、

山口県の厚東護國神社

GHQの廃棄命令に従わず、

隠して保存されていた

「奉安殿」が本殿として

使われている例を見ましたが、

全国には、奉安殿が思った以上に

残されているのかも知れません。

奉安殿とレンガ塀。

過去を知る、

大切な文化財ですね。

今日の発見

敷地に立っているのが、

こちらの案内です。

何かと親切な行橋市ですね!

しかし、

雪と風のコラボレーションは、

僕の指先の感覚を奪ってしまい、

気力が無くなり、

AR体験やってません(汗)

 

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