2019/07/15

香椎宮(佐賀県鳥栖市)

 

二つ目の出会い

四阿屋(あずまや)神社に向かう途中、

先に書いた八坂神社に偶然巡り会い、

今度は、香椎(かしい)宮にも出逢いました。

香椎宮という名前の神社が、

鳥栖にあるというのは調べていましたが、

「今回は行けなくてもいいかな」

位にしか考えていませんでした。

ところが、車を走らせていると

進行方向右手の田畑の中に、

こんもりとした森が現れ、

その森の前には鳥居が見えたのです。

もうこれは行くしかない!

僕は呼ばれているんだ(笑)とばかりに

ハンドルを右に切って、神社の境内に駐車。

四阿屋神社の神様は、

なんか色んな神様を

僕たちに紹介してくれますね(笑)

香椎宮へ

名前からして、福岡市東区に鎮座する

香椎宮を勧請しているのかという

僕の予想は的中でした。

駐車場からまたもや鎮守の森全体が

見ることが出来る地点まで戻って、

まずは遠景を撮影です。

まさに鎮守の森。

境内という表現より、

鎮守の森の入口と言った方が、

しっくり来ます。

石段の両脇には

杉の木が番人のように

そびえ立っています。

守られている感満載の

香椎宮境内ですね。

石の神橋を渡れば、

拝殿ですが、ここで右側に注目。

巨木ともいえるクスノキ。

足元が悪い中、妻にはいつものように

木に寄り添うようお願いしました。

樹齢は410年と書かれています。

そんなクスノキに喜びながら、

拝殿に向かうとまたもや

気になるものが…

元禄14年(1701年)の

文字が刻まれた放生池の文字が、

いきなり僕の目を引きました。

今を去ること300年以上前、

同じ元禄14年に江戸城、松の廊下で、

赤穂藩の藩主、浅野内匠頭が、

吉良上野介に切りつけ、

切腹しているのです。

そして、翌年の元禄15年が

あの歌舞伎でもテレビでも

映画でも超有名な「忠臣蔵」、

赤穂浪士の吉良邸討へのち入りです。

忠臣蔵と同世代の人々が建立し

見ていた石碑や池と

僕たちは同じ物を見ているなんて、

なんだか感慨深いものですね。

こちらが放生池。

放生池と社叢の雰囲気を

動画でも撮影してみました。

放生池という名前からして、

仏教的なものがありますので、

江戸時代までは、

神仏習合の神社だったのでしょう。

拝殿は木々に覆われています。

うっそうと繁った

森の中に佇む香椎宮。

こちらは江戸時代末期に建立された狛犬。

台座を見ると、

熊本県天草下浦の石工が

これを造っています。

佐賀県(肥前)には腕の良い

石工がいたと思うのですが、

地元の石工ではなく、

熊本の石工に頼んだのは、

何か訳があったのでしょうか?

と思いつつネットで調べたら、

な、なんと!!

江戸時代後期以降、

九州の石工の多くは

天草下浦出身だったそうで、

天草深見というサイトによると、

驚く事にそのルーツは、

「宝暦10年(1760)元肥前の国藩士

松室五郎左衛門という浪人が

故あって下浦石場に移り住み、

村人に石工技法を伝えたのが始まり」

と書いてあります。

へ〜凄いぞ肥前(佐賀)!

肥前鳥居や肥前狛犬という

独創的な文化を創った

石工の血が脈々と受け継がれているとは、

嬉しい限りです!

佐賀県出身でもないのに興奮(笑)

吽形。

古い手水鉢。

左右に脇殿を配した拝殿。

恵方板と天井絵。

拝殿と本殿を仕切る格子戸は、

開けてあり、本殿前の榊の緑が

目に飛び込んで来ました。

拝殿自体にも天井絵が描かれています。

左から、拝殿、幣殿、本殿。

明治期に造られたようです。

本殿の裏には

樹齢270年ほどの

イチイガシがそびえています。

高さの比較写真。

そのイチイガシの根元には、

石の祠(末社)があります。

御祭神は不明ですが、

何だか、僕たちに問いかけてくるような

そんな石祠です。

最後にツーショットで参拝は完了。

理由は分かりませんが、

妻は猫の真似。

福でも招いてくれれば

いいのですが…(笑)

 

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