高伝寺(佐賀市)鍋島・龍造寺御霊屋
お墓の存続
戦国時代から江戸時代末にかけての
大名墓所の存続は、明治以降、
事情により明暗が分かれています。
徳川将軍家などは、
日光東照宮の家康と
同じく日光の輪王寺大猷院にある
家光のお墓以外、
空襲で焼けてしまい、
二代将軍秀忠はじめ歴代将軍の廟所は、
多くが墓石のみとなっていて、
往時の面影はあまり残っていません。
ただ、増上寺では、
墓石を一箇所に集めて
整備はされていて、
増上寺でのお墓参りは可能ですので、
明暗どちらかと言えば、
「グレー」かも知れませんね(笑)
そして、佐賀藩の鍋島家、
龍造寺家の墓所はと言えば、
明治初期、各所にあった墓を
鍋島家の菩提寺の高伝寺に集約して、
鍋島家・龍造寺家の墓として整備され、
今に至っていますので、
こちらは「明」としておきましょう(笑)
墓所へ
副島種臣・枝吉神陽のお墓に参り、
再び本堂前へと戻ります。

今度は右側、
鍋島龍造寺御霊屋へ。

本堂の左奥が御霊屋への入口です。

お邪魔しま〜す!

墓所前に到着。

「高伝寺墓所」
以下、全文です。
「この墓所は、明治4年(1871)に
鍋島家当主直大が各地に散在していた
龍造寺家並びに鍋島家の墓を改葬し、
整備したものである。
龍造寺家の墓塔10基が東側に、
鍋島家の墓塔16基が
西に整然と並んでいる。
墓域は明るくて広く、
独特の雰囲気と調和の美を表していて、
一種の墓地公園の様である。
ここは、近世の墓塔の変遷や
佐賀の近世史を研究する上からも
資料的価値が高い。」
鍋島直大さんは、
幕末の名君、鍋島直正の子で、
最後の藩主(11代)となった方です。
父直正が没したのが、
お墓整備と同じ明治4年ですから
直大さんがお墓を集約した事は、
ある意味、
亡き父の菩提を弔う気持ちあっての
ことかも知れません。

鳥居をくぐり廟所へ。
鍋島家墓所
まずは鍋島家墓所から参拝開始。
全部は巡れないので、
藩祖〜三代をメインに巡ります。

参道左右の燈籠は圧巻!
ここからは各お墓の案内を
抜粋し書き出していきます。

「鍋島二代藩主 光茂公
元禄十三年(1700)五月十六日卒」
「忠直公の一周忌に追腹を切った
江副金兵衛の死を惜しみ、
寛文元年(1661)白石邑主
鍋島山城守直弘の死去に際し、
側近の殉死を差し止めた。
二年後、
徳川幕府もこれに倣い禁止令を出す。」
本堂編でも書きましたが、
江副金兵衛さんの行動を見ると、
忠直公の人望は、
ホント素晴らしかったのでしょう。

「鍋島初代藩主 勝茂公
明暦三年(1657)三月二十四日卒」
「父母の菩提を弔うため、
長崎に入港したシャム(タイ)商船から
貴重な赤栴檀(あかせんだん)を
買い求めようとしたが、
船は柳河へ出た後であったので、
使者を柳河へ出しこれを購入、
京都の仏師宗仁法橋に
釈迦文殊普賢の三尊像を彫らせた。
これを安置して祀ったのが釈迦堂であり、
毎年四月の十九、二十日に
御開扉法要が行われる。」

パンフレットにも掲載されている
御開扉の事ですね。
それにしても鍋島家には、
追腹といい、釈迦堂といい、
何かとストーリー性があって、
興味が湧きまくりですよ(笑)

「光茂公の御父 直忠公
寛永十二年(1625)正月二十八日卒
於江戸早世 御年二十三」
「忠直公の没後、
側近江副金兵衛は遠く高野山にこもって、
主君忠直公の木像を刻み一周忌に
その像を光茂公に奉った後追腹を切った。
本堂内に安置してあるのがこの像である。」
先ほどの光茂さんの所で出た
追腹のお話です。

鍋島藩祖 直茂公墓。

「鍋島藩祖 直茂公
元和四年(1618)六月三日卒」
「右側の自然石は直茂公継室室陽泰院
(石井兵部少輔忠常女)の墓石。
この自然石はいつの頃からか
太閤に従って朝鮮へ出陣した際、
戦場で一夜の枕石としたものと
いわれている。」
直茂さんは、
龍造寺隆信の家臣として活躍し、
隆信の敗死後は、
徐々に独立大名として、
秀吉、家康からも信任され、
支配を龍造寺家から鍋島家へ移行、
佐賀藩としての礎を築いた、
名君と言える人かと思います。

参拝。

「鍋島三代藩主 綱茂公
宝永三年(1706)十二月二日卒」
「両親の追善菩提のため、
京都東福寺にある明兆筆の
大涅槃像を模写させたが、
完成まえに卒去」

この大涅槃像、
綱茂公は見られなかったのか・・残念!

参拝。

鍋島十代藩主直正公御室
文肅夫人の墓。

「鍋島十代藩主
直正公御室 文肅夫人
弘化四年(1847)二月三日卒」
「文肅夫人は十一代将軍
徳川家斉の二十八女盛姫」
直正公の最初の夫人で、
早くに亡くなり、
お二人の子供はいません。

これは神道式のお墓ですね!
お寺にあるのは、
移転されてきたからでしょうか?
龍造寺家墓所
次に龍造寺家の墓へ。

参道は墓域の真ん中で、
龍造寺家を「主役」にしてあるようです。

参道はさらに続きます。

龍造寺家初代の遠祖、季慶公宿阿の墓。
ここは墓域の中心部で、
直大さんの龍造寺家への敬意を
ダイレクトに感じます。

「龍造寺家初代の遠祖
季慶公宿阿と号す
宿阿常榮大禅定門
年不詳」
「西行法師の叔父に当たるといわれる」

墓碑も立派です。

宝篋印塔に参拝。
この方がいてこそ、
龍造寺家の繁栄があり、
その後の鍋島家の佐賀藩へと
バトンが繋がったのですね・・

「龍造寺隆信公の曽祖父
山城守家兼公
向かって左
天文十五年(1546)三月十日没」
このひいおじいちゃんから
隆信さんは直接家督を継いでいますので、
この方もかなりの重要部人物です。
さらにこの家兼公、
90歳過ぎて、
龍造寺家を再興する為挙兵し、
その勝利後、
家督を隆信に繋いでいるのです。
まさにスーパーじいちゃんですよ!

スーパーじいちゃんに参拝。

遂に見つけた(笑)
龍造寺隆信公の墓。

「一六代 龍造寺隆信公
(向かって左)
天正十二年(1584)三月二十四日没」
「肥前・肥後・筑前・筑後
・豊前・壱岐・対馬の
「五州二島の太守」として、
薩摩島津義久、
豊後の大友宗麟とともに
九州を三分して争ったが、
天正十二年島原に於いて
島津・有馬の連合軍に敗れ戦死」
龍造寺家の代名詞的存在の隆信さん。
志半ばで敗死とは、
やはり心残りだったでしょう・・・

参拝。

「一七代 龍造寺政家公
(中央)
慶長一二年(1607)十月二日卒」
「二十四才の時、
病弱のために久保田邑に隠棲」
隆信さんは、
後継に恵まれず、
結果、政権は鍋島家に移ったのです・・

「龍造寺高房公
(向って左)
慶長一二年(1607)九月六日卒)
「隆信公の嫡孫・多布施三丁目の天祐寺は、
高房公の菩提を弔うため創建された」
この方は、
龍造寺家こそが佐賀の正当な藩主だと
徳川家に必死で訴えていましたが、
受け入れられず、
22歳で自害しています。
これも美学かも知れませんが、
父、今川義元が桶狭間の戦いで
討ち取られた後の今川氏真さんのような
ある意味
「プライドにこだわらない生き方」が
出来ていれば、
未来に繋がったのかも知れません・・・
そして最後に異色の墓を一つ。

安子姫の墓。

「龍造寺胤榮公の御姫隆信公養女
岸嶽城主波多三河守源親の室 安子姫
静室妙安大姉
寛永元年(1624)七月晦日没」
「夫三河守が太閤の朝鮮出兵に従い
出陣している間
城中を守っていたところ、
酒宴の席で太閤が
姫の美貌に食指を動かしたため、
焼け火箸を顔にあて貞節を全うした。
与賀町の妙安寺の開基」
武士の妻の強さ、
現代では考えられませんね!
さすがです。