2021/04/04
興国寺(福岡県福智町)後編
宗派の変遷
仏教には宗派というものがありますが、
お寺関係の知識が乏しい僕には、
名前の違い意外は、
よく分かりません。
今回参拝した興国寺は、
創建時は、天台宗の福智寺、
南北朝時代に中興され、臨済宗、
戦国時代の再建時に曹洞宗と
宗派が3回変わり、今に至っています。
時の権力者の意向が
多く反映されていることや、
一旦は廃寺になっていた為、
新たな宗派として再起したから
変遷があったとも想像出来ます。
それでも、多くの貴重な歴史を持った
この興国寺が、多くの困難を乗り越え、
今ここにある事が、只ありがたい限りです。
大師堂
山門、本堂、観音堂と巡った後は、
観音堂向かって左側のお堂へ向かいます。
右から本堂、観音堂、
そして左端に見えている
小ぶりの建物が、大師堂です。
弘法大師、聖観音、
弁財天を祭る大師堂。
大師堂の裏の崖には
多くの石仏が配置されています。
無隠元晦坐像の案内
本堂裏側の
「開山堂」に安置されている、
無隠元晦坐像の案内が、
何故か大師堂の横にあります。
開山堂が目立たない場所なので、
ここに建てられたのかも知れません。
案内を要約すると
「興国寺開山と仰がれる
無隠元晦禅師は、
弘安六年(1283)
に田川市弓削田に生まれ、
博多の聖福寺で僧となり、
仏の道を志しました。」
「その後、元(中国)で修行後、
帰国後京都の南禅寺などの
名刹の住持を歴任、
晩年は故郷に戻りこの寺で、
生涯を全うしました」
「無隠元晦坐像は南北朝時代の作で、
同時代の肖像彫刻の傑作です」
「骨格や左右の肉付きの違いなど、
細部にわたり丁寧に
表現されていることから、
生前に彫られた可能性があります」
このように書かれていて、
写真を見ると、
確かに生きているような表情、
眼差しが、素晴らしいと思います。
開山墓
境内の裏山には、
無隠元晦禅師のものと思われる、
開山墓があります。
本堂の左横を抜けて裏山へ。
開山墓が見えてきました。
参拝。
文字を確認すると、
向かって右側面には、
「康正(こうしょう)丙子二年
(1456年)後花園帝賜」
と刻まれています。
また、左側面には、
「延文三年戊戌(1358)
十月十七日」の文字があり
Wikipediaで確認すると、
この日が無隠元晦禅師の
命日の一つとなっています。
思うに、無隠元晦禅師没後
100年ほど経った時、
後花園天皇から
この開山墓の仏塔を
賜ったのでしょう。
あくまでも勝手な推測ですが(笑)
開山基の後ろから撮影。
何だか700年の時を超え、
興国寺を優しく見守る
無隠元晦禅師の姿が
目に浮かびますね!
媛子墓
開基墓から山の中に入って
少し登って行くと、
小笠原貞正の妻、
媛子の墓があります。
小笠原貞正を
Wikipediaなどで調べると
小倉の支藩である新田藩主で、
幕末、長州に敗れて香春政庁に移った
幼い小倉藩主を補佐した人で、
その妻は、ここ興国寺で療養中
亡くなったそうです。
合掌。
墨染の桜
本堂と観音堂の前に、
一本の桜の木があります。
周囲を玉垣風な樹木に囲まれ、
大切にされていますね。
案内には、
「南北朝時代、京都占領をめぐる戦いで
九州へ敗走した足利尊氏は、
ここでつぼみのついた桜の枝を切り、
逆さに地中に挿して、
今後の再起の戦運を占ったと
伝えられています。
「今宵一夜に咲かば咲け
咲かずば咲くな
世も墨染の桜かな・・・」
桜は一夜にして咲き、
尊氏はやがて征夷大将軍となって
室町幕府を開いたという
伝説が残されています。」
このように書かれ、
後の世の武将、細川幽斎、
小笠原忠真の歌も紹介されています。
細川幽斎さん、秀吉の九州出兵の頃、
多々良浜でも歌を詠んでいましたし、
さすが、一流の歌人ですね。
尊氏の隠れ穴
境内向かって左側の山中にある
尊氏の隠れ穴という、
何とも気になる名前が付いた
穴を見に行きました。
案内は完璧。
ここから森へ。
確かに隠れられそうな雰囲気です。
案内には、
「足利尊氏が身を潜めたという隠れ穴です。
南北朝時代、京都占領をめぐる戦いで
九州へ敗走した足利尊氏は
ここで再起を図ったと伝えられています。
室町幕府成立後、
尊氏とその弟の直義は、
国家安泰の祈願と戦死者供養のため
全国に安国寺を建立しますが、
この興国寺は66ヶ寺随一として
所領を寄進された豊前国の安国寺です。
その安国寺に関する最古の文書が
興国寺に残されています。」
このように書かれ、
尊氏と直義の書状が写真付きで
紹介されています。
隠れ穴の全体。
中を覗くと大きな空間があり、
これを見た妻は
そう言っていました。
今日の癒やし
興国寺からの帰りがけ、
池の上で見た
カワセミに癒やされました。
妻のおばあちゃんが、
カワセミになって来てくれたのかな?