金戒光明寺(京都市)三重塔
過去と未来の折り合い
文禄・慶長の役と言われる
豊臣秀吉の朝鮮出兵では、
多くの朝鮮人が日本へ
連れて来られています。
中には、
自由意志で日本に来た人も
いるようですが、
多くは、
戦利品的な考えでの
連行された「捕虜」でしょう。
ただ、その後、
日本において、
帰国出来なかった
朝鮮の人たちが成し遂げた功績には
目を見張るものがあり、
何故、そんな境遇なのに、
気持ちを整えて活躍出来たのか、
不思議に思ったりもします。
少し例を挙げると、
有田焼の始祖であり、
陶山神社の祭神となった「李参平」、
佐賀鍋島藩の
儒学者で書家の「洪浩然」、
熊本城の加藤神社に
加藤清正と共に祭られている
「金宦公」などか思い浮かびます。
このうち洪浩然と金宦公は、
主君の死に際し、
殉死しているんですから
僕の常識のはるか外です(笑)
そして、
金戒光明寺で知ったのが、
西雲院の開基で、
上記の人々と同じく
朝鮮から連れて来られた
宗厳(そうごん)という僧です。
望郷の思いも強かったであろう
その苦しい心の中で、
過去と未来の折り合いをつけ
日本に於いて活躍した朝鮮の人々、
ただただ敬服するのみです・・・
紫雲石西雲院
金戒光明寺の一番奥に位置する
會津墓地に参拝後、
その會津墓地を管轄する紫雲石西雲院へ。
境内。
「紫雲石西雲院」縁起。
案内を抜粋・要約すると
以下になります。
「承安五年(1175)
春三月彼岸の頃、
法然上人四十三歳の時、
比叡山を下り真如堂の阿弥陀様に
「勝縁の地を指し示め給へ」と
お参りされた後、
当地の山上の大石に
腰をかけ念仏をとなえると
西方より紫雲がわきおこり
金色の光が輝き、
芳香が漂ってきました。
法然上人は
「これぞ念仏有縁の地なり」と
浄土宗を開かれ、
これよりこの大石は「紫雲石」と
呼ばれるようになりました。
それから440年後の
元和二年(1616)
朝鮮より日本に
連れ帰られた宗厳(そうごん)は、
出家して和尚となり
縁あってこの紫雲石を賜り
西雲院を創設しました。
宗厳は不断念仏行を称え、
江戸時代、「紫雲石万日寺」とも
呼ばれるようになりました。」
西雲院本堂。
左右には、
開基の宗厳さんの故郷である
李氏朝鮮時代の石人が、
平成三十一年に建立されています。
左側の石人。
参拝。
次に紫雲石へ。
このお堂の中に
紫雲石が安置されています。
紫雲石に参拝。
今から900年ほど前、
法然上人はこの上で、
ここにお寺を建てることを
決意したんですね!
三重塔
少し戻って三重塔へ。
なんだか、
青空が多くなってきました。
「三重塔(国・重要文化財)」
案内を抜粋・要約すると、
以下になります。
「この塔は、寛永十年(1633)に
伊丹重好が以前仕えていた
二代将軍徳川秀忠公の
菩提を弔う為に建立した。
塔の内部には文殊菩薩が祀られていたが、
平成二十年四月御影堂左脇壇に遷座された。
現在、本尊として
文殊菩薩のご分身(浄鏡)をお祀りし
左右の脇壇には、重好公とその両親、
当山二十八世潮呑上人の木像が
安置されている。
御影堂に遷座された文殊菩薩は、
運慶作と伝えられ日本三文殊随一として
信仰を集めている。」
別角度から撮影。
三重塔から墓地・金戒光明寺、
そして、京都市内の風景。
(続く)