金戒光明寺(京都市)御廟

 

旅のスタイル

金戒光明寺は、

寺域の広さもさることながら

見所が多過ぎて、

全く時間が足りませんでした。

まあ、

時間に追われるのは、

僕たちの「旅のスタイル」

なんですけどね(笑)

アフロ仏像

ネットでも話題となった

金戒光明寺のアフロ仏像。

五劫ごこう思惟しゆいの阿弥陀仏」

というのが正式名称で、

阿弥陀様なんですね。

ここを真っ直ぐ行き、

石段を少し登ると

アフロ仏像がいらっしゃいます。

アフロ仏像に参拝。

正式名称よりも身近に感じられるので、

「アフロ仏像」で、

許してもらいましょう(笑)

ちなみに、

右上に見えるのは法然上人の御廟です。

金戒光明寺のサイトによると

この仏像は、

江戸時代中頃の製作と思われ、

この類の仏像は、

全国に16体ほどしかなく、

しかも石像なのも珍しいそうです。

アフロさんの前に建つ

「文殊塔 東北 二十間許二

山崎闇齊やまざきあんさい先生墳墓アリ」の石柱。

神社検定のテキストで

よく目にした神道家のお名前なので、

僕はこちらの方が気になったのですが、

場所を特定できず、

次回に持ち越すことに。

法然上人の御廟

次に、

浄土宗の開祖で、

金戒光明寺を開いた、

法然上人の骨を祀る御廟へ。

「圓光大師御廟前」と刻まれた常夜燈。

御廟前の左右には、

平敦盛と熊谷直実の供養塔が

まるで阿吽の狛犬のように(笑)

向かい合って建てられています。

源平合戦の一ノ谷の戦いで、

二人は一騎打ちし、

40過ぎの熊谷直実が

自分の息子のような

若い敦盛を討ち取り、

大功をたてたにも関わらず、

後に武士をやめ、出家し、

法然上人に弟子入りして、

敦盛の菩提を弔ったそうで、

高野山奥之院でも

二人の供養塔は、隣同士に

仲良く並んでいたのを思い出します。

向かって左側、

平敦盛の供養塔。

反対側、

熊谷直実の供養塔。

御廟に参拝。

御廟を左サイドから撮影。

御廟正面のお地蔵様にも参拝。

徳川秀忠夫人崇源院供養塔

次に石段を挟んだ、

御廟の反対側へ。

奥へ。

徳川秀忠夫人崇源院供養塔。

大きな宝篋印塔です。

高野山でも崇源院の供養塔は、

奥之院のお墓の中で、

一番大きく立派でしたが、

ここでもずば抜けていますね!

ちなみにこちらが

奥之院の崇源院供養塔です。

話は戻って、

金戒光明寺の供養塔の案内を

読んでみます。

浅井長政と信長の妹

お市の方の三女で

秀忠の正室となった人というのは、

有名ですが、

案内の最後には、

「この墓は、家光の乳母にして、

三代将軍をめぐって

夫人と争った春日局が、

同夫人の死後、

追善菩提のため建立したもので、

夫人の遺髪が納められている。」

このように書かれています。

そして、このすぐ左手前に、

春日局の供養塔が、

寄り添うかの如く建っています。

参拝。

案内を抜粋・要約すると

以下になります。

「徳川三代将軍家光の乳母。

明智光秀の重臣、斎藤利三の三女。

秀忠と母お江与(崇源院)は

家光の弟、忠長を寵愛し、

次期将軍の雰囲気があった中、

春日局が家康に直訴し、

家光が三代将軍になることに確定した。

金戒光明寺とも縁が深く、

寛永五年(1628)二月十五日

一山供養により

二代将軍秀忠室お江与の供養塔を建立、

同年極楽橋(木造)を再建、寛永十一年

駿河大納言忠長の供養塔建立した。」

後継争いの確執を乗り越えて、

母子の供養塔を建てるとは、

春日局という人は、

やはりそれだけ、

大きな器の人間だった

ということでしょう。

(続く)

 

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