2023/09/07

金戒光明寺(京都市)會津墓地

 

じゅうおきて

明治維新の時、

会津藩が最後まで

幕府側だったのは、

会津武士子弟達の「什の掟」の、

「ならぬことはならぬものです」

このいい切り方が、

バックボーンにあった事が

理由の一つでしょう。

御三家筆頭の尾張藩や、

藩祖が井伊直政の彦根藩までが、

最終的には、

「幕府を裏切った」にも関わらず、

最後の最後まで、

徳川幕府に寄り添った

会津藩士たちの忠義を見て、

東照大権現(徳川家康)も

涙を流していたかも知れません・・・。

會津墓地参道

金戒光明寺の参拝よりも(笑)

最優先で墓参へ。

墓地は右上の奥まった所にあります。

行く途中も見どころが

満載なのですが、

ここでは割愛しています。

山門

ここを潜って真っ直ぐ行くと

本堂ですが、

僕たちは右に曲がってお墓を目指します。

参道。

こんな案内が、

要所要所にあるので、

全く迷うことはありません。

極楽橋を渡り奥へ。

曇り空だったのが、

墓地方面には、

青空が見えてきました。

ここにも案内の標柱があります。

この門の手前を右へ。

門前のお地蔵様にご挨拶。

本当に親切な案内だ〜!

お〜

右側の墓地の上が青空ですよ!

墓地入口。

お墓参り

まずは、案内へ。

「會津墓地の由来」

文章を要約・抜粋すると

以下になります。

「幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、

徳川幕府はついに新しい職制、

「京都守護職」作り、

會津藩主松平容保公をこの任に命じた。

家臣一千名を率いて

本陣の黒谷金戒光明寺に入陣した。

黒谷金戒光明寺は、大きな寺域で、

自然の要塞となっており、

御所や粟田口にも近く

軍事的要衝の地であった。

會津藩の活動は目をみはるものがあり、

文久三年八月十八日には激派の公郷を追放し

元治元年(1864)には

守護職配下の新撰組による「池田屋騒動」、

七月十八日十九日の

「禁門の変」の勝利などで

治安は回復されてきた。

しかしながら會津藩の犠牲も大きく、

そこで本陣の金戒光明寺の山上に

三百坪の墓地が整備され葬られた。

その数は文久二年から慶應三年までの

六ヵ年に二百三十七霊をかぞえ、

後に慰霊碑を建立し

鳥羽伏見の戦いの百三十霊を合祀した。」

松平容保公さん、

きっと誰しもが

「やりたくなかった」であろう

京都守護職を拝受したこと、

ただ、敬服するのみです・・・。

會津藩の皆様に参拝。

そして、空を見上げると・・・

やはりここも

青空が見えていますね!

御霊が歓迎してくださったのかな?

次に慰霊碑へ。

左手前の慰霊碑は、

案内に書かれていた

鳥羽伏見の戦いで

亡くなった方々の合祀碑です。

参拝。

「鳥羽 伏見 淀」と刻まれています。

そして、さらに奥へ。

う〜ん、

やはり松平容保公の石像に

ジーンときますね・・・

石像ではありますが、

花も飾られているので参拝。

お顔アップ。

表情の奥底には、

大いなる決意と、

人知れない苦しみを感じます・・・

足元に置かれているお酒。

「忠義

會津人に捧ぐ

洛東 くろ谷 金戒光明寺」

ちょっとたまりませんね・・・

松平容保さんに

これほど相応しいお酒はないでしょう。

慰霊碑に参拝。

そして、

二人して涙したのが、

こちらです・・・

「赤べこ」・・・!

会津若松の方が、

置かれたのでしょうか・・・

なんか、

たまらんですよ・・・

この春、会津若松を旅したとき、

僕たちも

白虎隊自刃の地

飯盛山で、赤べこを購入し、

毎日頭を撫でているのですが、

まさか京都で赤べこに出会うなんて、

思いもよらないこと・・・

やはり会津若松には、

特別なご縁を感じます・・・

最後に慰霊碑と

松平容保さんの石像を

背後から撮影。

なんだか容保さんが、

お墓に眠る人々を

慰めてくださっているような、

そんな光景に見えてしまいます。

(続く)

 

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