郡山城(広島県)毛利元就墓所編
勇者には運も味方する
ホラー映画などで、
最初に殺されるのは、
大方「臆病」な人物ですが、
毛利元就は、全くその逆だった人でしょう。
勇気あるものには、
運も味方するもの。
大内義隆が、
山口県大寧寺において家臣の
陶隆房(のち晴賢)に殺され、
巨大勢力の大内氏の傘下から
うまい具合に抜け出せたのも
幸運の一つだったでしょうが、
その後の、
「厳島の戦い」で陶晴賢に勝利し、
巡って来た運を自ら掴み取ったのは、
やはり実力です。
そんな毛利元就の居城であった
郡山城は思った以上に
大きく、攻めにくく、
そして見どころが実に多いお城でした。
郡山城へ
安芸高田市歴史民族博物館から
徒歩で郡山城攻城へ。
郡山城案内図。
広大な郡山城の全てをじっくり巡ると、
恐らく5時間はかかるでしょうが、
そこまでの時間はありませんので、
僕たちは、山頂の本丸を含め、
2時間でほぼ一周する事に。
(結果は約3時間でした・・汗)
まずは、毛利元就墓所へ。
山の麓は緩やかな登り。
郡山城阯の碑。
毛利元就火葬場跡
石碑から少し歩くと、こんな表示が。
「左上御火葬場跡」。
左の橋を渡ってさらに進みます。
毛利元就火葬場跡に到着。
案内によると、
「毛利元就は、元亀二年(1571年)
六月十四日、お里屋敷で七十五歳で逝去
波瀾の一生を閉じた。」
「六月二十日初七日の法会を営んだ後、
この火葬場で荼毘に附した。」
「この火葬場跡は、
3間四方を石垣で囲み、
中に栂の木を植えた。」
このように書かれています。
火葬場跡の先に建てられている
日本百名城 郡山城の碑。
ここから引き返し、
次の目的地、酉谷地点石垣跡へ。
酉谷地点石垣跡
平成18年の豪雨災害で露出した為、
たまたま見つかったのが、
麓付近にある酉谷地点の石垣です。
石垣に近づいてみます。
災い転じて福・・・
そこまでは行きませんが、
人の被害が無かったならば、
それはやはり良かったかな?
もちろん、
この石垣は貴重な発見でしょう!
こんな写真付なので、
往時の姿がよくわかります。
毛利隆元墓所
次は、毛利元就の長男、
若くして亡くなった
隆元公の墓所へと向かいます。
ここから石段で右上へ。
案内図。
まずは、隆元公の菩提寺だった、
常栄寺跡を散策。
広くて全景は撮影できませんね。
案内によれば、
隆元の死後、元就が作ったお寺で、
この常栄寺は、(関ヶ原の戦いの後)、
毛利家は防長に移封された際、
山口市に移転し、
今の常栄寺は雪舟庭としても
有名であると書かれています。
墓所に参拝。
毛利の祖先は「大江広元」ですから
ここでは大江姓が刻まれています。
墓所の案内によれば、
「尼子氏後略のため、
元就がいる出雲に応援のため
多治比に一時帰還した。
郡山城には入らず、出雲に出発、
途中安芸佐々部で
和智誠春の饗応を受けたが、
まもなく発病、翌朝未明に41歳、
永禄六年(1563)急逝した。」
このように書かれています。
多分、毒殺でしょう・・・
そう思ってWikipediaで調べると、
やはり和智誠春は元就から疑われ、
最後には厳島で殺されています。
青光井山尼子陣所跡
隆元の墓から少し行くと、
尼子氏の陣所跡が
見られる地点があります。
案内。
「天文九年(1540)
出雲尼子氏が吉田に侵攻した
郡山合戦の際、
尼子詮久(晴久)軍によって築かれた
巨大な陣城跡。」
このように書かれていて、
今でもその遺構はしっかりと
残っているそうです。
結局大内氏の援軍が来たこともあり
尼子軍は退却、
毛利側の勝利で終わっています。
二つの山が、尼子軍の陣城があった所。
毛利元就もこんな風景を
見ていたのでしょうか?
毛利元就墓所
ここからは森の中に入っていきます。
鳥居もあって、
まるで結界のようですね。
参道へ。
お墓近くですが、
空気が澄んでいて、
清々しく感じます。
洞春寺跡の案内。
この一帯は洞春寺の寺域だった場所。
案内によれば、
「毛利元就の三回忌に
孫の輝元が建てた」
「現在の洞春寺は山口市にある」
このように書かれています。
毛利元就の墓所にふさわしい
広大な敷地です。
毛利一族墓所の案内。
毛利一族墓所。
石段を登って、元就の墓所へ。
案内。
元就の生涯が
年表形式で綴られています。
墓所。
参拝。
毛利元就の墓所参道から
毛利一族の墓を臨む。
洞春寺跡を動画で撮影。
元就の墓所の一角にある
百万一心の碑。
郡山城拡張の際に
元就は人柱を立てず、
百万一心と書いた石を埋めたという
逸話によるものですが、
真偽のほどはわからないようです。
今日の不思議発見
酉谷地点の石垣を過ぎた時、
妻が発見したのがこちらです。
モコモコした体毛が気持ちよさそう(笑)
猿?いや違います・・・
いったい何でしょう?
声をかけてみましたが、全く動かず。
今持って謎の生物です。